みたび日々徒然 63
木村天山
夢を見た。続けてストーリー性のある悪夢に似たものである。
何度目かの夢で、起きることにした。気分が悪い。
目覚めても、気分の悪さは続いた。しかし、次第に夢の内容が朦朧としてくる。
人生も夢に似ている。いや、霊性に目覚めれば、夢であろう。そして大半の人は、人生が悪夢であったと知る。
何も良いことなく、淡々として地味に生きた。引かれる牛のように生きた。そこに価値を見いだすことなど出来ずに生きたと。
生きることを勘違いさせる宗教に入信することなく、ごくごく普通に生きたのである。それが、霊性に目覚めると、悪夢と知るのである。または、悪い冗談のような人生であると。人生をゲームのように考えて、適当に楽しんで生きた人は、少しばかりため息をつくだろう。一体、生きるとは何だったのかと、振り返る。
死によって、いずれ、この人生の夢が覚める。
今、生きると言うことは、金を得るということである。9割りの人は、金に支配される。この世は、すべて金で動くからである。勿論、志で動く人もいる。だが、それはごく少数である。大半は、金を敵に生きる。社会との折り合いとは、金のことである。
希望達成も、成功も金で計られる。それが世の中である。もし、この世が金でなければ、うだつのあがらない人が、いかに生き生きと生きられるか知れない。
だが、私は知っている。
霊界は金の価値ではなく、心の状態、在り方で決まる次元であることを。次元の違う話を、別の次元の言葉で語ることは至難の業である。平然として、霊界を語る人がいれば、それは、大半が知らないか、知っていても、ほんの一部の霊界であろう
死後の世界など無い、霊界も無いと言う人は、それでいい。在るものは、無いと言っても在るから、私は、それらに説得はしない。する必要ない。私は霊界の布教師ではない。 胡蝶の夢いう話が中国にある。蝶になった夢を見て、目覚めた時に、本当は蝶なのではないかと思うという話である。
さもありなん。人生は、演じることであるから、本当は蝶で、人間になる意識の時もあると。少し、意識を変えてみると、人生には、相が無いのである。
人生に確実なことは何も無い。だが、障害のある人は言うであろう。この障害は、確実なものであると。変えようのない不幸を負う人も言うだろう。この不幸は、変えようもないと。何処から来て、何処へ行く者か解らないのであれば、それは実に、不合理であろう。 単に人生が一回きりで終わり、もう死ねば消滅すると思えば、それは救いようのない状態なのかもしれない。
しかし、私は知っている。この人生は、続きなのであると。前世の続きなのである。魂の旅を続ける、ひとこまが人生であると。それは信じるものではなく、そうなのであり、それを知らない人、信じない人を説得することもない。知らないことが、不幸であり、それを教えらなれないことが、その人の縁であり、運なのである。
それも前世で選んできた。そう、人間は選んで来るのである。すべて自分の願いの通りになる。自業自得、因果応報という法則の下にいる。
一人の人間の魂の在り方に、誰も関与することが出来ない。勿論、救うことも出来ない。関与し、救えると思うのは、僭越行為であり、傲慢である。