みたび日々徒然 68

木村天山    

 若年層に鬱病が多くなっている。勿論、30、40代にも多いが、若年層が鬱病になるとは、少し意味が違う。

 小中高生に、鬱病が多いのは、平等教育のなせる技である。

 現実は、皆、違うのに、教えるのは、皆、平等であると言うものだから、子供は混乱して、鬱になる。

 人間の平等を説いたのは、仏陀であり、その平等は、人間の霊性に対してである。それ以外のことは、不平等極まりない。

 平等なのに、自分を人と比べると、明らかに劣っていることがある。誰もが皆、野球選手になれるはずもない。それが現実ではないか。それなのに、皆平等であると教えるから、心が、へんちくりんになる。

 ついに、そこで、ナンバーワンでなくていい、オンリーワンでいい、なとどいう歌が流行る。最初から、努力をしなくてもいいというオンリーワンである。自己慰撫の最もたるものであり、そこまで鬱病が至ったということであろう。

 自分をぐちぐちと慰めて安心する様は、奇妙であり、不気味である。

 また、ジェンダーフリーという考え方に取り付かれた人は、男らしさ、女らしさを言うなという。子供たちは、一体、どうしていいのか解らなくなる。

 男でも女でもない、化け物になれと言うことなのかと考える。

 男と女は差別ではなく、役割分担であり、それも人それぞれであるということなのだが、取り付かれて妄想している人には、それが解らない。男らしい、女らしいは、差別であると信じる。

 例えば、性同一性障害の人の場合は、自分でその悩みを克服していくことで、成長する。ゲイにしても、男らしいとか女らしいとかの問題ではなく、ゲイとして生きるという意識と意志をもって望むという、それが理想である。

 大きなお世話を焼く、ジェンダーフリー教育である。

 「らしさ」が曖昧であるということが、どんなに素晴らしいことか。男らさしは、女らしさに近くなる人もいる。その逆に、男として、至極真っ当な意識と意志を持つ者もいる。 このまま、子供を混乱させると、男でも女でもない、新しい生き物になる可能性がある。 さて、鬱病とは、脳内物質の変化による。足りなかったり、多かったりして、脳内が混乱する状態である。

 教育とは、善良な強制である。

 どこかで、枠を引いて上げなければ、子供は混乱する。

 人は、皆違う。人は不平等である。百人百様の在り方がある等々を教えなければ、先に進まない。

 ましてや、この世は苦しみの世であるから、早くから、それに気づき、目覚めていなければならない。みんな違って、みんないい、という共生の思想、共存の思想を、教えるべきである。

 将来の大人が、もうすでに鬱病だと思うと、私は、絶望的になる。子供は、今が一番楽しい時期である。子供の時代は、黄金の時代である。それが、後に、生きる糧にもなる。大人が、それを犯すことは出来ないのである。

 

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