第12話
いつも行く、マッサージの店の、マッサージ嬢は、23歳である。
イサーン、東北地方から出て来た。
彼女は、10人兄弟がいて、現在は、四人姉妹で、バンコクに暮らす。
下の二人の姉妹が、一緒の店にいて、一番下の妹が、部屋で、家事をしているという。
これは、コータが夜にマッサージに出て、聞いてきた話である。
その中で、彼女と、コータは、共通の話題である、私の話になった。
彼女曰く、あの人は、よくバンコクに来るのだが、英語も、よく解らないし、タイ語も出来ないのは、どうしてなのかと、聞いたらしい。
彼女たちは、英語など、自然と覚えるものと、思っている。
別に、どこかに、習いに行く訳ではない。
必要に迫られて、覚える。
そこで、どうして、私が、英語も、タイ語も出来ないのかという、疑問である。
コータは、覚える気がないからと、言った。
そして、彼女の、話を聞いたコータは、驚いた。
実は、今、恋愛をしているという。
それで、そのことを考えて、今日は、朝から、お腹が痛いと言った。
誰と付き合っているの
アイルランド人
へー、じゃあ、あまり会えないね
そうなの。こっちに来た時だけ
寂しいね
うん。それに、彼に、会いたいし、来て欲しいと、連絡すると、彼は、君は、僕がいなくても、大丈夫と、返事をしてきたという。それが、ショックだった。
コータは、ところで、彼は、幾つなのと、尋ねた。
63歳
えっーーーーー
彼女は、23歳である。
彼は、63歳、ということは、30歳も違う、と、コータは、驚いた。
部屋に戻ったコータは、私に、危ないと、言う。
彼女は、ふけ専だと。
ふけ専とは、年上が好きなタイプである。
あまり、近づくと、深みに嵌まると言う。どうりで、私の話題を出すというのだ。
つまり、タイ人は、年齢など関係ないということ。
いや、今は、世界中が、恋愛には、年は関係ないのだと。
実は、私は、これからの予定は、パタヤに行くと、言った。
そこで、彼女に、パタヤに行ったことは、あるかと、尋ねると、無いと言う。
彼女が、精々、行くのは、バンコクの王宮のお寺である。
そこで、私は、それじゃあ、今度一緒に、パタヤに行こうと言った。何気なく。しかし、それは、彼女に、非常に大きな、影響を与えたらしい。
今まで、パタヤに行こうと言った人は、いないのである。
コータは、だから、私に、気をつけろ、と、言ったのだ。
要するに、彼女は、ふけ専だから、惚れられる可能性があるというものだった。
私は、笑ったが、それもありかもしれないと、思った。
これは、注意すべきだ。
そして、彼女は、来月、私が、もう一度来ると言ったので、その時なら、パタヤに行けると、言ったという。
あららら、である。
少しの社交辞令など、通じない。
次に行く時は、コータのアパートに泊まるので、マッサージ店から、遠い。だから、行くことはないと、少し安堵しているが、言葉には、注意すべきだと、思った。
常識が違う。
さて、翌日、昼にタクシーで、パタヤに向かった。
通常料金は、1500バーツと言われたが、私は、1000バーツの車を探した。そして、高速料金を入れて、1200バーツで、決めた。
パタヤでは、レディボーイショーを観劇する予定である。
コータの知り合いの、ショー出演の、レディボーイが、私たちのために、半額チケットを用意すると、言ったからである。
世界一といわれる、レディーボーイショーであるから、私も、一度、是非見たいと思っていた。
昔は、おかまショーといわれたものが、今では、世界中から、観劇に来る。
その、歴史は、30年という。
30年続けていて、世界的に成り上がったのである。
パタヤには、その、ティファニーショーと共に、もう一軒の大型、レディーボーイショーがある。観光収入の、30パーセントが、そこから出ると、言われるほどである。
一人の、レディボーイからはじまった、ショーは、見事に、成功した。
最初の、ショーは、三人から、始まったという。
私たちは、テラの会活動の他に、それぞれが、テーマを決めて、調査していることがある。
コータは、タイ、東南アジアの、レディボーイの実態であり、私は、児童買春の実態と、ゲイ関係の、ボランティア活動の有り様である。
更に、トランスジェンダーの問題を深めている。
自画自賛する訳ではないが、私たちは、時間を有効に使いたいと、思っている。折角、出掛けているのである。貪欲に、色々な事柄について、興味を持つことだと、思っている。これは、才能である。
コータは、フクションと、ノンフィクションの形をとった形式で、それらを、まとめている。
新しい表現方法だと、私も思っている。
更に、何度も言うが、見なければ解らない、聞かなければ、解らないということが、旅を通して、実感として、解るのである。
想像力は、現実を見て、聞いてから、逞しくするものだと、思っている。
で、あろうとか、ではないか、という、表現は、使いたくない。
その場に足を運んで、ナンボのものである。
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