木村天山旅日記

遥かなる慰霊の旅 平成19年11月1日

第一四話

 

10日の朝、コンサート開催の朝である。

私は、七時に、最初に泊まったホテルに向かった。

一階のテラスで、食事をするためである。

 

知った顔のボーイが出てきた。

まだ、私が、このホテルに泊まっていると思っている。

最初に、コーヒーを頼んだ。

 

そして、歌の歌詞を反芻していた。

プログラムを一応作った。ただし、お客様には、配布しない。

その時の雰囲気で、変えられるようにだ。

 

会場には、夕方の五時半に着く予定である。

歩いて行かれる場所だから、気が楽である。

 

コーヒーを飲み、タバコをふかして、暫くしていた。

そして、朝のサンドイッチを頼む。

 

ふっと、レストランの中を覗くと、白人が朝食を食べている。

兎に角、量が多い。

朝から、あれだけの物を食べるのであるから、大きいのかと、思う。

しかし、あれを食べてみたいと思うのだ。人の食べている物を食べたいと思うのは、性格だろうか。

 

だが、思い直して、矢張り、サンドイッチにする。

いつもと、同じものである。

 

本日のコンサートで、今回の旅の最終目的を終える。

何とも、過ぎてしまえば、早いものである。

明後日、帰国するのだ。

 

黙っていても、時間が過ぎる。

時間を哲学すると、ノーベル賞ものだと、聞いたことがある。

それ程、時間というものは、捉えにくい。

流れると、捉えただけでいいのか。

そして、本当に時間は、流れているのか。

流れていると感じるのは、こちら側である。時間の方は、流れるとは、感じない。時間に、意識は無いのである。

また、人間の時間と、象や鼠の時間も違うだろう。

鼠は、早く死ぬ。象は、長生きである。

だが、鼠も象も、生きている間の心拍数は、同じだという。

 

兎に角、時間を、掘り下げて考えてみたいと思うが、本当は、そんな暇は無い。

地球が太陽を一回りすると、私は、一つ年を取るという、現実を、時間の流れと考えていいものだろうか。いやいや、この辺で、止めておく。

 

ホテルに戻り、体をベッドに預ける。

コンサートの前に、フットマッサージをする予定である。

昨日の、マッサージ屋である。約束したことでもあり、まだ、今回はフットマッサージを受けていないから、楽しみである。

 

その前に、昼食である。

さて、何を食べようか。

 

野中が、安いタイの食堂を教えると言う。

そこに、行くことにした。

暫く、ベッドで休む。

 

昼食まで、休むことにした。

 

私は、旅をしている間、本を読まない。

ところが、今回は、少し本を読んでいた。タイの歴史である。

それも、太平洋戦争前から、戦後を中心にしたものである。

 

タイと日本との関係について、知りたいと思ったからだ。

日本は、アジアの国の中で、最もタイとの付き合いが深い。

 

タイの近隣の国は、戦前は、皆、植民地だった。タイのみ例外である。

結果論から言えば、日本が興した戦争が、それらの国に、独立を促したと言える。

 

例えば、ミャンマーも、独立を果たしたのは、アウンサン将軍が、日本軍から教えを受けてのこと。

ただし、ミャンマーは、その後、二度のクーデターにより、軍事政権を樹立している。

大変残念なことである。

独立の最初の将軍の娘が、現在、民主化を進める、アウンサン・スーチーさんである。

 

タイと言う国は、色々な軋轢を、うまくかわしている。

特に、太平洋戦争後が、顕著である。

 

絶対王政だったタイが、1932年6月24日の、人民党によるクーデターで、立憲君主制と移行する。

暫く、王室の存在が、稀薄化する。

それが、再び、脚光を浴びるのは、共産主義に対抗して、国民統合を推進する時代が到来してからだ。

人民党政府も、暫く不安定な状態で、紆余曲折を経た後で、首相の地位に就いた、ピブーンの時代になり、1939年6月に、国家信条を公布した。

それにより、国名が、シャムから、タイに変更した。

タイとは、英語で、タイランドと書く。つまり、タイ人の土地という意味である。それは、また、タイ人の国という意味になる。

 

タイと日本が、友好国、兄弟国となったのは、1933年の満州国問題に関する、国際連盟の対日非難決議である。タイは、棄権票を投じたことと、その後のクーデターで、ピブーンに頼られたことからである。

そして、日本は、タイと友好関係を深める条約の締結を希望した。

だが、タイが、英仏と、不可侵条約を結ぶことで、日本も、同じく1940年に、不可侵条約を結ぶのである。

 

太平洋戦争開戦の最初に、日本軍はタイ軍と、戦闘を行っている。

ピブーンは、中立的立場を取ろうとするが、結果的に、日本軍がタイを通過する通過協定を結ぶが、更に、軍事協定を結び、遂には、ビルマ進軍を、タイ側と行うために、同盟条約を締結した。

その後、タイは、連合国側のバンコク空襲を非難する意味で、1942年1月に、米英に宣戦布告することになった。

 

タイは、日本と共に、戦争を始めたが、それは、タイの領土拡大を目指したものだ。しかし、現在でも、この戦争は、日本により、無理に始めたものであり、タイも、日本に占領されたと、考える歴史の見方もある。

 

終戦の際に、タイが、特別に有利に事を進められたのは、宣戦布告の署名であった。

スイスにいる国王の変わりに、三人の摂政が署名するはずが、そのうちの一人が、雲隠れして、二人のみの書名になった。

ゆえに、タイは、署名は、無効であるとしたのだ。

また、英米に留学していたタイ人らが、日本に協力することを拒み、自由タイ思想を掲げて、帰国せずに、働きかけたことから、敗戦国という、最悪の事態から逃れられた。

勿論、痛みは、伴った。アメリカは、良かったが、イギリスが、21か条の要求を突きつけた。

その間に入ったのが、アメリカで、その支援を受けつつ、イギリスとの、平和条約の交渉を行った。犠牲はあったが、1946年に、平和条約を締結したのである。

 

上記、あまりにも簡潔過ぎるが、タイは、日本のような敗戦による、辛苦を舐めずに済んだ。

 

マッサージの時間がきたので、私は、出掛けた。

フットマッサージである。

彼女が、喜んだのは、当然である。矢張り、お客は、私一人だった。

フットマッサージは、通りから見える、一階で行う。

彼女は、饒舌になった。

片言の英語で、色々と話しかけてくる。私が、毎日通えば、上客である。

 

色々な質問に、単語で、答えた。

独身、仕事で来ている等々である。

次第に、営業になってくる。

明日、オイルマッサージをするかと言う。オッケーと答えた。

喜ぶ。

そして、店から、ボスが出て行くと、収入の話を始めた。

今日の、フットマッサージは、200バーツである。自分の取り分は、60バーツであるという。つまり、100バーツにつき、30バーツが、彼女の取り分である。

タイでは、チップを渡すことが、当然になっている。チップが無ければ、生活が出来ないのだ。それは、野中からも、聞いていた。

私は、20バーツのチップを渡していたので、彼女の収入は、一時間で、50バーツである。約、170円。時給170円は、安い。しかし、それが現実である。

話は、続く。