木村天山旅日記

 バリ島成20年5月 

 第7話

バリ島の、民家にて、食事をするということ、大変な喜びである。

 

そして、その食事は、民家の人も、普段は、決して食べられないものであり、私たちに、ご馳走してから、その家の人々や、親類も食べることになるという、二重の喜び。

 

いつも、私は、ウイディアさんの、叔父さんに当たる、マディさんという方の家で、食事を頂いた。

今回も、テラハウスでコンサートを終えて、マディさんの家で、食事をした。

 

皆、大感激である。

 

マディさんの家のオープンな居間で、奥さんや、そのお姉さんの手作りの食事を頂く。

奥さんも、そのお姉さんも、ホテルの厨房で、働くので、料理は、大変巧い。

私たち、日本人の、好みの味付けも、知っている。

 

その食事の前に、奥さんのお姉さんの、娘さんと、携帯のテレビ電話で、話をした。

彼女は、ジャカルタの、医大に行っている。

医者を目指しているのだ。

その彼女のために、母親は、毎日、働き尽くめである。

しかし、いずれ、その苦労が実るのだ。

娘が、医者として、バリ島に戻る。

夫を、亡くして、女手一つで、娘を育てたのである。

 

ウイディアさんの、お父さんも、やってきて、皆で、輪になり、食事がはじまった。

 

最初に、皿に手をつけるのは、私である。

バリニーズは、決して、先に手をつけないことを、知っている。

また、女性も、客と一緒に、食事をしない。するのは、男だけである。

 

一つ一つの料理の味は、満点である。

サラダ、カレー、ミーゴレンという焼きソバ、そして、鶏肉の炒め物、ご飯、野菜炒めである。

 

一つの皿に、取って、食べる。

これならば、レストランを開店しても、十分にやってゆけると、思う料理である。

 

バリ語、インドネシア語、英語、日本語での、会話が、弾む。

ウイディアさんが、皆に、今日から、皆さんが、家族ですという。

最高の、言葉である。

バリ島は、皆、大家族である。

 

時に、知らない顔が、見えても、誰も不思議に思わない。

皆、親類なのである。

前回も、知らない子が来ていて、皆と、一緒にいた。

写真にも、収まっている。

後で、尋ねると、親戚の子だという。

 

また、知らない、お祖父さんがいることもある。

兎に角、大家族である。親戚の人も、家族という。

 

それは、チューク島に、行った時も、そうだった。

従兄弟も、ブラザーと呼ぶので、本当の兄弟かと、思いきや、よく聞くと、従兄弟であったりする。

 

私たちも、その家族の一人に数えられたのだ。

一緒に行った者も、感激である。

 

今回は、初のバリ島だった、辻あやかも、家族として受け入れられた。

コンサートで、四人が、浴衣を着た。

それが、また、皆を喜ばせた。

 

浴衣姿の少女は、美しい。

皆に受け入れられて、本当に嬉しかっただろう。

 

観光旅行では、決して味わえない、旅である。

それもこれも、人の縁である。

 

テラハウスの、立案者である、麻生クミと、その夫ウイディアさん。

クミは、私と、19歳の時からの付き合いである。

私の、舞踊と、煎茶と、いけばなの、お弟子さんだった。

 

25年以上の付き合いである。

そして、テラハウスのオーナーとして、私を迎えてくれた。

ウイディアさんは、社長である。

 

更に、辻知子は、今回から、テラハウスの理事としての、参加である。

 

テラハウス・バリ・ハーモニーと、テラの会は、別組織であるが、連携して、活動する。

テラの会では、これから、バリ島での、事業も展開する。

その担当は、私の補佐をする、野中耕多である。

 

野中は、別に、バリ島での、事業展開のために、準備をしている。

いずれ、形になれば、お知らせする。

 

私は、マディさんの、絵画を、日本にて紹介し、それを、販売することにした。

また、ウイディアさんの、お父さんの絵画も、そのようにしたいと、考えている。

バリ島、クトゥ村の、絵画は、一目で解る特徴がある。

 

草木の中に、鳥が描かれる。

その、緑の色合いが、独特の雰囲気を持つ。

藤岡宣男も、大好きになった、絵だ。

 

これから、バリ島に行くたびに、一枚、一枚と、運ぶことになる。

 

実は、前回、マディさんの、最初の絵を、私は、貰っている。

大変、貴重なものだが、何のためらいもなく、私にくれた。

今、その絵は、私の机の横に、掛けてある。

 

男は、皆、絵描きである。

どんな仕事をしていても、家に戻ると、筆を取る。

勿論、その絵具を買うことも、大変なことなのだが。

 

バリ島から、多くの有名画家が、誕生した。

しかし、バリ島の絵描きが有名になることは、なかった。

これから、私が、バリ島の絵描きを有名にするべく、活動する。

 

バリ島は、世界への入り口になっていった、経緯がある。

これからも、それは、変わらない。

世界中の人が訪れるのである。観光客は、年間200万人を超えている。

その人々が、口コミで、広げる。

 

一番早いのが、オーストラリアである。そこから、また、飛び火する。

そして、アメリカや、ヨーロッパに行く。

 

ガムランと、日本舞踊の組合せが、新しい芸術を生むこともあり得る。

そして、コンサート活動も、広がる可能性がある。

 

どのように、展開しても、おかしくないのだ。

 

実は、今、私は、バリ島、タイのみだけではなく、日本の歌を、ラオスに紹介することを、考えている。

今、ラオスでは、ようやく音楽活動が広がりを見せ始めた。

若者たちが、音楽活動を開始した。

ラオスのテレビ局が、それを、後押しする。

勿論、非常に、未熟なものである。

しかし、どこも、始めは、そうだった。

 

タイ演歌は、日本が発祥である。

それは、タイ風に変化し、今も、タイ人の心の音楽となっている。

また一つの、波紋を投じたいと思うのである。

 

夢のまた夢でもいい。

兎に角、始めることが、楽しい。

 

食事が終わり、ホテルに戻る時間である。

名残惜しく、それぞれが、片言の、覚えたてのインドネシア語を使う。

トリマカシ ありがとう

マクトゥール スクスム ありがとう

 

ありがとう

さよなら

おやすみ

彼らも、覚えたての、日本語を使う。

 

ホテルに到着したのは、十時に近くなっていた。

皆、そのまま、それぞれの部屋に戻る。

 

そのホテルのオーナーは、日本人女性である。

25年間、バリ島に住む。

バリ人と、結婚し、二人の息子がいる。

 

その方が、なんと、今回の私のバリ島滞在を、待っていたと知る。

その理由が、オランダ人が、バリ島に、障害児の、施設を作ったので、私に知らせるためだった。

特に、ダウン症、難病を持つ子供たちの施設である。

そこは、オランダ人のボランティアによって、運営される。

 

彼女は、ホテルのプールを、提供した。

私に、音楽コンサートをお願いしたいとのことだった。

 

私の噂は、前回のコンサートの時に知っていたという。

だが、時間がなく、逢うことが出来なかった。

従業員からも、私の話を聞いていたと言う。

 

今回の公演チラシを見て、待っていたのだ。

 

そのビレッジには、二泊した。

旦那さんが、辻知子の歌に、感激して、「逢いたくて」のCDを、掛けっ放しにしているとのこと。

二日目の、最後の見送りは、ご夫婦揃ってだった。

 

次回も、お世話になることになった。

彼女は、自宅の電話番号を教えてくれ、直接予約が出来るようになった。

 

新しい出会いであり、新しい活動の種が、蒔かれた。

次の機会に、私は、オランダ人が作った施設に行くことになる。

そこで、また、出会いがある。

 

オランダ、日本侵略の恩讐を超えて、今、バリ島にて、多くの人の縁が生まれる。

戦った民族同士が、今、バリ島で、和解し、新しい関係を、築くために、努力するという、実に、気分の良い、話である。

 

まだまだ、書くことはあるが、次の機会にする。