矢張り、暗いうちから、目が覚めた。
四時である。
少しして、また、眠るべく目を瞑る。
五時に目覚めて、起きる。八時間以上寝たのである。
部屋の外に出て、モーテルの敷地を歩く。
暗い。電灯の光だけである。
暫くすると、東の空、明らんできた。
腰巻一つである。風が涼しい。こんな冬なら、大歓迎である。
部屋に戻る頃は、朝日が出た。
野中を起こして、出掛けることにする。
街の中心に行きたいと、思う。そこで、朝のコーヒーを飲む。それが、一番、街を知る手立てになる。
街の中心は、歩いてゆくことにする。
30分ほど、ぶらぶらと、歩いた。
街の中心。驚いた。
その一角が、繁華街だと言うのである。
スーパーから、美容室から、兎に角、そこには、街のすべてがあった。
一軒の店では、数人の女たちが、忙しく、働いている。
その中に入った。
皆、話し好きで、色々と、言葉を掛けてくる。
皆、フィリピンの人だった。
日本語が、少し出来る女もいた。
コーヒーと、サンドイッチを頼む。
野中は、一つで、いいと言う。一つを、二つにしてもらう。
本当に、それで十分だった。
店の前の、コーナーに座り、コーヒーを飲む。
朝は、黒い肌の人が、多く目に付いた。
アボリジニ、ヨォルングの人たちである。
彼らには、ヨーと、声を掛ける。
ハローと同じ意味である。皆に、声を掛ける。
私は、浴衣であるから、日本人だと、すぐに、解るはずである。
本日の、予定は、これから、町外れのガインガルの聖地に行くことである。
野中が、一度来ているので、案内は、いらない。
出て来た、サンドイッチを食べて、そこから、聖地に向かった。
まだ、朝のうちである。
人が少ない。
日差しが強くなる。私は、メガネの上に、サングラス用の、色眼鏡をつけた。
随分と、歩いた。
一人の、アボリジニのおじさんに、確認して、聖地へ向かう。
入り口に来た。
驚いた。
看板がある。
そこには、ワニの絵が描かれてあり、ワニに注意せよ、である。
そして、更に、ワニに、食われないようにとのこと。
ギャ、である。
ワニが出る。
野中は、今は、乾季であるから、大丈夫という。
野中が、来た時期は、雨季であり、川の水かさが増して、怖かったという。
その川を、渡った。
申し訳程度の、水の流れである。
一本の道を、歩き続ける。
私は、ワニが出た時のために、一本の枯れ木を、持った。
もし、ワニが襲ってきたら、それを、口に入れようと思った。
ドキドキし、ワクワクした。
しかし、ワニは、出なかった。
一つ、ワニ捕りの、籠を見た。
中に、鶏三羽が、吊るされてある。
ここでは、ワニを食べるのである。
クロコダイルという、ワニである。
砂道に、ぬかるんで、進んだ。汗が出た。
右手の沼を見て、進む。
睡蓮の花が、丁度時期であり、多く咲いている。
可憐な、小さな薄紫の花である。
その、睡蓮の花が、後で、重要な意味を持つことを、知る。
バードウォッチングの小屋に、白人がいた。
私たちは、無視して、歩き続けた。
到着した、目の前は、沼地である。
大きな、大きな池である。
野中が、声を上げた。
鶴がいた。
番いの鶴である。
鶴を、初めて見たという。
私は、早速、御幣を作る。
付近の木を見て、枝を一つ、頂く。
それを、潅木の一つに、捧げて、祈りの準備をする。
不思議である。
言葉を必要としないのである。
私は、御幣を、太陽に掲げて、神呼びをした。
いつもなら、祝詞を挙げる。
しかし、その必要は無いとの、啓示である。
さて、どうするのか。
天照のみ、御呼びして、待った。
すると、口から、アーと出る。そのままにして、アーと、続ける。
野中を見た。私の写真を撮りつつ、私と共に祈る姿勢である。
異語にしたらと、言う。
説明する。
異語とは、古代語などが、自然に出ることである。
しかし、それには、魔が憑くこと多い。
私は、アーと、続けた。
清音のみでなければならない。
すると、舌が動く。
アーの音の中に、微妙に、音が変化するのである。
そのまま、続けた。
私は、目の前を見ている。
先ほどの、二羽の鶴が、動かない。そして、名の知れぬ鳥が、目の前の木に止まり、それも、動かないのである。
不動の姿勢の鳥を、見て、私は、音霊の、所作を続けた。
鳥たちは、私の清め祓いが、終わるまで、動かなかった。
その沼地を、すべて、清め祓いした。
その時、後から、カップルのアメリカ人が、近づいて来た。
私の様子を見て、戸惑っているので、声を掛けた。
今、日本の方法で、祈りを捧げていると、言った。
彼らは、頷いた。
クリスチャンかと、訊くと、パブテスト派だという。プロテスタントの、一派である。
私は、二人に、あなたたちの幸せを、祈りますと、幣帛を、掲げて、清めた。
神妙にしている。
終わると、サンキューと、言い、私たちに、良いビーチがあると、教えてくれた。
その、ビーチに行くつもりはなかったが、最後の日に、行くことになる。
二人が、いなくなり、私は、再度、清め祓いをして、神送りを始めた。
私は、追悼慰霊のために、来たのである。
この聖地では、アボリジニ、ヨォルングの先祖たちが、鎮まり治まった場所としている。
慰霊の意味も込めて、行ったが、追悼慰霊は、別の所で、行う予定である。
御幣を、そのまま、池に納めて、終わった。
暫く、潅木に腰掛けて、辺りを見ていた。
鳥たちは、やっと、動き出した。
目の前の鳥は、一度だけ、静止したまま、反応した。
私が、音霊の所作をしている時に、一度だけ鳴いたのである。
しかし、そんなことに、意味を云々することはない。
通常と違うことが起こっても、それに反応しない。
祈りは、ただ、あるがままに行う。
何か、普通と違う状況に反応すると、必ず、それは、魔に通ずる。
人は、奇跡と言うが、それは、魔の方便である。
奇跡は、毎日、私に起こっている。私が、生きているということである。
そして、太陽が昇る、沈むということである。
それ以外の、奇跡は、必要ではない。
奇跡を起こすものは、すべて、魔物である。
名残惜しく、私たちは、その場を、後にした。
ワニも、出なかった。
ここで、ワニに食われて終われば、それでも、良かった。
ワニに、食われる程度の、人生である。
帰りの道で、近道を発見した。
二つに分かれる道の、別の道を選ぶと、何と、来た時の、半分の時間で、入り口に着いた。
再び、私たちは、繁華街に向かった。
まだ、昼ではない。
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