木村天山旅日記
 ゴールデントライアングルへ
 
平成20年
 10月
 

 第9話

ゴールデントライアングルにて詠める歌

 

タイ ビルマ

ラオス隔てる

メコン河

トライアングル 流れに揺れる

 

あはれなる

トライアングル

悲しみの

歴史の重さ

はて遠きなり

 

顔洗う

メコンの流れに 

生きる人

更に流して

生きるタイ人

 

 

父の死に読める歌

 

朝に鳴く

鳥音と共に

父の死を

迎える我に

よすがのありか

 

父と子と

結ぶ縁の

人の世に

遥かに仰ぐ

虚空の果て

 

何ほどの

こともなきこと なれどもや

人の死にたまう こと 厳かに

 

人の死に

遭うたびに また

鳴り響く

この命ある

貴きことと

 

死は確定

生は不確定

この乖離

埋めることなく

生き続けては

 

鎮魂の 

歌を詠むなり

我が心

ゆらぎの果ての

その果ての果て

 

忘られぬ

思い出は

父の船 ゆく

闇の海 それ

輝く日の出

 

この夜は

日本の酒を

飲みたいと

切なく流す

涙を呑む

 

ゆくりなく

川の流れる

如くして

流れるままに

生きればよい

 

いずれの日

何も語らず

静かに独り

大地の元に

横たえる身

 

故郷は

父にあり母にありてぞ

故郷は それ

隠れてぞあり

 

 

我は泣く

二度と再び

現れぬ

この人の世の

懐かしきかな

 

 

チェンマイにて詠める歌

 

スコールも

朝日に譲り

西へ行く

日の出と共に

空晴れ渡る

 

チェンマイが

雨に洗われ

清まりて

今日の哀楽

はじまれりかな

 

 

前回のタイ、バンコクにて、首相府の、反政府運動を見た。

それに関して、ある、論調がある。

タイは、選挙によって決まったことを、国民は受け入れない。アメリカのように、選挙で決定したことは、受け入れるという、民主的国民意識が、必要であると。

 

アメリカは、イラクにも、アメリカ型の民主主義を求めた。しかし、御覧の通りである。

 

民主化といっても、それぞれの、国や民族によって、民主的というものは、変容する。

 

選挙結果が、不正による場合は、どうするのか。

タクシン前首相は、北部、東北部を、買収によって、票にした。

 

アメリカ型の民主主義というものを、世界全体に、押し付けるというのは、正に、独善である。

 

それぞれの、国の事情と、民族性により、民主主義というものの、形が、変容してもいい。

 

日本も、そうである。

アメリカを真似ることはない。

あちらは、大統領制である。

 

しかし、日本には、天皇制という、現在は象徴とされた、しかし、根強い、国民の支持を得る、天皇の存在がある。

 

それは、また、世界に誇れる、日本の家系でもある。

2668年という、長きに渡る、天皇という存在である。

国民は、天皇を、祈りの支え、そして、日本の国体として、受け入れてきた。

為政者が、変わろうと、天皇に対する、篤い思いは、変わらない。

勿論、一部の左翼系、共産化を望む人には、無用な存在であろう。

 

だが、現実に、今の今でも、天皇に対する、思いは、多くの国民に変わらず、受け入れられてある。

 

国の、重要文化財、人間国宝というものを認める国柄である。

天皇は、その、象徴でもある。

 

日本には、天皇を主とする、民主主義が、あってよい。

 

グローバル化した世界であるから、なお一層、天皇の存在が、世界に輝く。

 

天皇、ご訪問を歓迎する国々の多くは、その、歴史と伝統に、敬意を表する。

海外に出て、はじめて、天皇の存在の、確たること、また、その存在の誇りを思う。

 

これが、右翼というものであろうか。

私は、右でも、左でもない。私は、下、シモである。

天皇を、上、カミとして、奉る、シモの国民である。

 

上、カミは、天皇で、安堵する。

 

天皇は、私のことは、知らない。知る必要は無い。

だが、私は、日本の国体を、天皇として、認識する。

 

勿論、歴史によって、天皇制が、無くなるならば、是非もなし。

 

皇祖皇宗とは、天皇に続く上、カミである。

それは、日本国民の祖先の象徴である。それを、受け入れるか否かも、現在は自由である。

 

靖国神社に、奉られる、英霊に対して、迷惑である、奉るなという団体がある。

全く、日本の伝統というものを、知らない。

ただ、名前を掲げて奉るのであり、他の宗教のような、偶像ではない。

その、名前を、削れというのである。

 

逆に言うと、それは、靖国の奉りを、肯定していることとも、受け取れる。

単なる、名前を掲げているだけであるから、それは、本人ではないと、それそこ、信じれば、事足りる。

 

キリスト教徒、一部の仏教団である。

日の本の国には、組しないという、彼らである。

要するに、日本列島文明圏には、入らない者であるから、靖国など、無視してよいのである。

あれは、単なる、自己の信仰を鼓舞させるための、行動であると、判定する。

 

自らの信仰で、英霊を拝めばよいのである。それとも、自らの信仰では、無理なのか。