天山旅日記
ベトムへ
平成20
10月
 

第10話

パタヤ

バンコクから、高速道路に乗ると、約一時間少しで、着く。

昔、私が出掛けた時は、三時間ほどかかった、記憶がある。

その、昔出掛けた時、それほどの歓楽街とは知らず、ただ、滞在していた、三日間、散歩を楽しんでいた。

 

その時、日本からのツアー客のおじさんたちが、夕方になると、ホテルロビーに集い、皆で、出掛けていたのは、集団売春に行くためとは、後で知る。

 

ビーチ沿いに、色鮮やかな電灯をつけて、女たちが、客を呼ぶ姿は、今も変わらない。

そこで、女と交渉して、一夜を買うということも、知らなかった。

 

ただ私は、タイという国に行ってみたいという気持ちだけで、バンコク、パタヤへの、フリーツアーに、申し込んだ。

 

今、まさか、こんな活動をするために、パタヤを、訪れるとは、全く知らない。

 

1960年代、ベトナム戦争に従軍していた、アメリカ兵の、保養地、娯楽地として、拓かれた町である。

 

今では、日本人のみならず、欧米人にも、人気のアジアを代表するリゾート地としてある。

 

そして、ゲイ天国、更に、レディーボーイ天国である。

ゲイが遊ぶなら、パタヤである。また、レディーボーイが、普通にいる。

 

私は、二年前に、ある人の付き合いで、パタヤに来ている。

バンコクと、パタヤで、一週間滞在した。

それが、タイ国王在位、60周年記念式典の日に、バンコクにいた。

天皇陛下と、同じ日程だったと、後で知る。

 

バンコクのホテルロビーで、その式典を見ていた。

以前の、タイ旅行記にも、書いた記憶がある。

 

チャオプラヤー川での、式典の様も、丁度通りすがりに見た。

市民は、王様の黄色のシャツを着て、バンコク市内は、黄色で、埋まっていた。

 

その式典の際、国王は、つねに、天皇陛下の隣で、親しくお話していたという。

国王は、天皇に、特別の思い入れがある。

その一つに、今は、当たり前になった、淡水魚である、鯛に似た魚を、昭和天皇が、国王に贈った。国王は、それを、増やし、川に放流して、それが、今タイの国民の上質な蛋白源になっているという。

 

バンコクの、スワナプーム空港に、飾られる、その時の記念写真でも、天皇皇后陛下は、前列、国王と、王室の、次に並ぶ。

私も、その前で、写真を撮ってきた。

 

丁度、その場に、空港の清掃職員たちが、地べたに座り、休んでいた。

私が、写真を撮るのを、見て、皆、微笑んでいた。

 

良く私が、タイの人に、キングオブ、プーミポン、ジャパニーズ、エンペラー天皇、ベストフレンドと言っている。

変な英語だが、内容は、通じる。

 

タイに行き、国王の歌が流れると、起立し敬意をはらい、国王のことを、好きだと言うと、必ず、嬉しそうに、ありがとう、と言われる。

 

バンコク、スクンビットのナナ駅近くの、屋台連合のような、場所で、朝七時頃、コーヒーを飲んでいると、皆、出店の準備で、大忙しである。

そんな時、国王の歌が流れる。

私たちは、起立して、それを、聞いている。

 

そんな私たちに対して、その屋台の皆は、現地の人と同じように扱う。いや、それ以上に、親切にしてくれる。

 

色々と、話はあるが、先に進まないので、省略する。

 

唯一言、軍事力の無い、権威というものが、平和を、もたらす。

それを、私は、ゆるやかな、王制という。

天皇は、その存在の象徴である。日本の象徴だけではない。

無形の権威というものの、象徴である。

その、権威の幻想は、国家幻想として、非常に有効に生かされるものである。

 

老荘が、言う、道にある、無用の用とは、無形の権威のことである。

私は、そのように、解釈している。

 

さて、今回、パタヤに行くというのは、遊びたいからだ、と言えば、納得するであろうから、遊びに来たと言う。

 

一つは、衣服支援であり、一つは、トランスジェンダーの、施設見学と、その、取り組みを知りたいということである。

 

衣服支援は、ベトナムで、半分程、差し上げた。

残りを、パタヤである。

縫ぐるみは、数点残っていた。別のバッグににも、忍ばせていた。

 

縫ぐるみは、ビーチで働く人の、子供たちに差し上げた。

一人の子に、上げると、その親が、まだ、あすこにいると、言うので、ビーチに行くと、幼い子が、一人いて、差し出すと、すぐに受け取った。その横に、眠っていた、幼児の横に、一つを置いた。

その親は、手を合わせて、お礼を言う。

 

パタヤでも、縫ぐるみは、売られている。

キティーちやんも、ドラエモンも、ある。だが、すべて、大型であり、あれは、男が女に、プレゼントして、セックスのきっかけにするようである。

 

縫ぐるみが、友好の物になるとは、全く考えなかった。

やってみなければ、解らない。

それらは、すべて、私が、ゴミの日に、拾い集めたもので、その一つ一つを、選別して、バッグに押し込んだものである。

 

勿論、差し上げるものであるから、清め祓いをしてある。

 

さて、問題である。

15年ほど前、パタヤで、とんでもない事件があった。

五十代になる、日本人の男が、幼児を数名部屋に、連れ込み、性的暴行を行ったというもの。

幼児の、叫び声に、近所の人が駆けつけると、幼児を犯そうとしていたという。

即座に、警察である。

その場で、逮捕された。

 

貧しい子供たちに、物を上げたり、食べ物を与えたりして、性的行為をする者、多々あり。

児童買春ではない。

幼女、児童暴行である。

 

まだある。

今度は、女である。

日本では、教師をしていた女が、浜辺で、物売りをしている、少年を、ホテルの部屋に連れ込み、犯したというもの。

女が、少年を犯すというのは、どんなことか、想像するが、勃起させて、自分の膣に入れたのでろあうと、想像する。

 

パタヤでの、日本人に対する、感情は、最低最悪になった。

 

売春で、生活を立てている、真っ当な、売春という、仕事がある。

そうではなく、全く、性的対象にならない、幼児、児童を、性的対象にするという、稚拙である。

 

それが、私の心に、記憶として、沈んでいた。

それが、今回の、衣服支援の主旨である。

つまり、名誉挽回である。

 

着物を着て、バッグを持って、パタヤを回った。

現地の人に、手渡したかったのである。

 

最初は、スラムに向かった。

一つ、スタッフが覚えていた、バラック小屋が立つスラムに向かったが、着いてみると、スラムは、見事に、アパートが立ち並んでいたのである。

きっと、政府の指示により、そのように、スラムを変えたのであろう。

 

住む家が、そのようになると、住む人の気持ちも、変わる。

経済的に、以前と、同じでも、気持ちが違う。

 

小屋のような、雑貨屋さんの、ベンチで、休み、さて、どうするかと、考えた。

スタッフが、タイ語で、その店のおばさん、あいるは、おばあさんに、子供の衣服があるが、必要ですかと、尋ねた。

すると、おばさんは、必要だと言う。

 

それでは、と、スタッフが、取り出し始めたが、私は、シャツを三枚だけにした。

これでは、私の主旨が違う。

私は、一人一人に、差し上げたいのであり、支援をしてくれた人にも、手渡しで、差し上げると、言っていると、スタッフに言った。

 

幾人かの、子供が、お菓子を買いに来た。

そこで、私は、彼らに、シャツを取り出して、日本語で、プレゼントと言って、差し出したが、受け取らない。

 

アパートに住むようになり、少し意識が変わったのだろう。

しかし、アパートから出て来る、女は、厚化粧して、何の商売をしているかは、解る。

子供たちの、衣服も、決して、粗末なものではない。

 

私は立ち上がり、戻ることにした。

 

そこを、抜ける時、一人の男の子がいた。

父と母もいた。

私は、子供用の、ズボンを取り出して、必要でいすかと、母親に尋いた。

母親は、頷く。

私が、それを差し上げると、バイクに跨り、出掛ける前だった、父親が、コープクンカップ、ありかとうと、言う。

 

物を差し上げるということが、どんなに大変なことか。

くれてやる、のではない、差し上げるのである。

 

支援は、至難である。

どんなに、貧しくても、生きる尊厳という、プライドがある。

 

アイアム、ジャパニーズ

私は、差し上げる度に、そう言う。

勿論、着物を着ているから、当然、日本人であることは、解るだろう。しかし、あえて、私は、日本人ですと言う。