天山旅日記
ベトムへ
平成20
10月
 

第15話

旅の最終日、チェンマイから来られる、小西さんにお逢いする。

約束の時間は、正午である。

有名ホテルのロビーで落ち合うことになっていた。

 

ゲストハウスから、歩いて、5分である。

 

その朝、七時を過ぎたので、屋台連合に行く。

屋台連合とは、私が勝手に名づけているので、その辺りに行って、屋台連合と聞いても、通じない。

 

皆さんと、顔馴染みになった。

向こうから、コーヒーと、聞いてくる。

コーヒーを頼み、その小路で、絞りたてジュースを作るおばさんから、20バーツのジュースを買う。

何も手を加えない、本当のジュースである。

オレンジの甘さのみ。日本の冬ミカンに似ている、ミカンである。

 

ジュースを飲み、コーヒーを飲んで、何を食べるか、考える。

スタッフは、少年のようになり、私の前にいる。

不思議なことで、レディボーイを続けていると、素になった時、少年のようになるのが、不思議である。

矢張り、少年は、中性なのである。

 

ここで、少年の美について、書きたいが、それは、性についてで、書くことにする。

 

実は、一つ書き忘れたことがある。

衣服支援の子供服が、少し余っていた。

 

スタッフが、マッサージをしたいというので、私がいつも行く、安いマッサージの嬢を紹介した。

私が連れて行った。そのまま、私は、部屋に戻った。

すると、担当したのは、別の中年の女性だったという。

 

私の紹介した嬢は、中年の女性に、客を譲ったことになる。

それは、中年の女性には、まだ、客がつかなかったので、嬢が、譲ったと思える。

そういう、優しさがある。

皆、苦労しているから、人の苦労が解る。

 

その中年の女性と、マッサージをしながら、話していると、彼女には、三人の男の子がいて、別々に暮らしているとのこと。

子供たちは、学校で暮らしているのである。

 

母子家庭で、皆で、暮らせるだけの、収入がないのである。

タイは、福祉政策が、非常に遅れている。

 

そこで、スタッフが、子供服を、少し持って来ているが、必要ですかと、尋ねた。

彼女は、必要、必要、欲しいと、言う。

 

マッサージを終えて、部屋に戻った、スタッフは、急いで、残りの、衣服を集めて、彼女に持って行った。

私は、それを見ていた。

 

戻ってくると、他の者も、出て来て、皆で、それを見て、良質な物で、自分も着れるものがあるという、女性もいたという。

小柄な女性は、子供用でも、着られる。

 

バンコクでも、必要な人がいる。

都会だからこそ、必要な人がいる。

貧しいゆえに、都会に出て働くという、感覚は、当たり前である。

 

これは、口伝えで、私たちの活動が伝えられると、ここでも、必要な人は、多くいるのだろうということに、気づいた。

 

バンコクには、カンボジア、ラオス、ミャンマーからも、働きに出ている人が多い。

ラオスの少女が、体を売れるようになると、立ちんぼになることも、多々あり。

 

成人になり、覚悟して、体を売るということに、何の問題もない。

寝る場所の確保と、食べることの、権利は、誰にもある。

何ら、恥じることはない。

 

人様に、世話にならず、自分で、自分の生活を、賄うのである。

 

実は、パタヤでも、ベッドメークする、女たちと、色々と話すことが出来た。

出稼ぎの人が多い。

丁度、子供服の下に、女性用の、ナイトガウン、寝巻きに出来る物が、数点入っていた。それを、彼女たちに、差し上げた。

大喜びで、それから、私たちは、実によくしてもらった。

 

一人のおばさんは、子供がいるというので、子供服を見て、選んで貰った。

その選んだ服を、静かな笑みを浮かべて見ていた。

きっと、子供に着せる時の、様子を思い浮かべているのであろう。

 

差し上げた時に、その場にいなかった女性がいて、元気な女性が、彼女には、何か無いのかと、言われた。

すべての、衣服を出して、彼女に合うものを、探して、渡した。

 

その時、支援の形の無形さを、思った。

臨機応変である。

必要な人に、差し上げる。

 

苦労している人は、優しいのである。人の痛みが解る。

そして、自分一人が良くなればいいとは、思わない。助け合う心で、支えあうのである。

 

バンコクに行く日の朝、ベッドメークで、廊下に座り、待機していた皆と、出掛けに会った。

次は、いつ来るの。その時も、このホテルに泊まるか。

また、このホテルに泊まるので、逢えるよ。

イサーン出身の女性が、皆の代表になり、待っている、と言う。

次は、いつになるのと、言う。

来年、来る。

来年って、いつ。

年が明けたら、来ると、言うと、納得した。

 

部屋から出る時は、皆、忙しかったが、一人の女性が、私たちが、部屋から、出る時、荷物まで、持って下に降りてくれた。

 

清算し、チェックアウトが、スムーズに終わるのを、見届けて、さようならと、言って、また上がって行った。

 

こうなれば、私たちは、彼女たちの知り合いである。

単なる、客の一人ではない。

次に行く時、更に、衣服を持って行けば、必要な人のいる場所を、教えてくれる。

彼女たちが、橋渡しをしてくれるだろう。

 

そして、本当に切実に、必要な人の存在も、彼女たちは、知っているはずである。

 

追悼慰霊から、子供服支援、衣服支援になり、そして、人と人の付き合いになり、情けある付き合いになり、その相手が、日本人である。

 

私の願いであること、成就せり、である。

 

前置きが長くなったが、小西さんとは、正午に会って、食事をすることにした。

 

小西さんについては、以前の旅日記は、何度も書いているので、改めて、説明はしない。

 

タイ北部の、慰霊地については、ほぼすべてを把握している方である。

皆、小西さんを、頼り、取材や、慰霊に訪れる。

マスコミ関係から、政治家、その関連の方々。

要するに、タイ北部の、慰霊については、スペシャリストである。

 

そして、小西さんは、事実を知る人である。

日本軍、日本兵の、事実を知る人で、それを、しっかりと整理して、書かれると思う。

多くの、誤解や、偏見を取り去り、事実を書くのである。

 

また、遺骨収集も行い、実際に、日本兵が、どのような亡くなり方をしたのかも、見ている。

 

更に、タイで、日本人として、生きている。

迎合は、しない。

真っ当な日本人として、国際人である。

 

海外で、日本人としてあることは、そののまま、国際人なのである。

日の丸を背負うことが、国際人の、第一歩である。

自分の国に、誇りを持てない人を、どこの国の人も、信用しない。