木村山旅
 沖縄・渡嘉敷島へ
 
平成20年
 12月
 

 第1話

2008年の十二月、一日、沖縄、渡嘉敷島への、追悼慰霊のために、出掛けるという、計画は、多くの伏線がある。

 

東南アジア各地での、慰霊を行い、いずれは、日本の慰霊地をと、考えていた。

そして、教科書問題、集団自決の、軍関与あり、無し、云々という問題。

多くの、情報を見た。

それぞれの、意見の相違も見た。

 

それでは、私は、どう考えるのか。

人の論調を、そのままに、取り入れて、自分の納得する意見に、賛同するということは、出来ないことである。

 

事実は、何か、である。

 

行くしかない。

行って、感じるしかない。

 

当日、スタッフは、不調にて、私一人で、向かった。

 

その、十日前ほどから、私は、午前中に、熱が出て、夕方に収まり、風邪のような、不調が続いていた。おかしと、思いつつ、風邪薬、葛根湯を用いて、やり過ごしていた。

 

しかし、沖縄、那覇に一泊目の夜、八時にベッドについて、朝、六時まで、眠った。

治っていた。

 

これは、後で、解ることである。

 

霊位には、すでに、通じていたということである。

 

モノレールで、見栄橋まで行き、そこから、ホテルに歩いた。

ホテルは、泊港の側である。

隣が、船のターミナルの、とまりん、という、施設がある。

 

ホテルに、着いて、一息して、食事をする段になり、私は、出歩くのが、たいぎで、何と、ホテルの前の、弁当屋さんで、ステーキ弁当、590円を買い、お茶を買って、部屋で食べた。

そして、シャワーを浴びて、酒も飲まずに、寝たのである。

 

予定では、翌日、渡嘉敷島に行くはずだったが、私は、翌々日にした。

その前に、衣服支援をして、荷物を、減らしてしまいたかった。

 

さて、ステーキ弁当であるが、実に、私は、翌日も、すべて、肉を食べた。

肉が、食べたいのである。

不思議だった。

私は、魚が好きで、毎日、魚を食べている。

煮物、焼き物、刺身である。

肉は、稀にしか、食べない。

それが、肉ばかりが食べたいのである。

 

余談であるが、慰霊などの、行為をする場合は、潔斎をして、出来る限り、魚介、肉類は、避ける。

出来るだけ、身体を清める意味で、菜食である。

肉、魚は、身体から、匂いを発して、神霊が、嫌うからである。

 

それは、慰霊の式、神奉りを、行う人には、常識である。

 

しかし、私の、この欲求は、何だろうかと、思った。

 

この旅は、ツアーの旅で、一泊四日のコースである。

一番安い、ツアーを選んでいた。

二泊目から、別のホテルに変更するのである。

そのホテルも、一番安い、ホテルにしていた。

 

最初のホテルから、歩いて、5分ほどの、場所にある、ホテルである。

 

朝食を食べて、次のホテルに移動する前に、ターミナルの、とまりん、に出て、港が、見える前の、外にある、ベンチで、コーヒーを飲んだ。

 

そこの、お姉さんに、路上生活をしている人は、この辺りにいるかと、尋ねた。

すると、とまりん、の、横にある、公園に、よく集っているという。

そこで、私は、コーヒーを飲み終えて、二つの荷物を、持って、公演に向かった。

 

衣服を差し上げる人を、捜した。

 

トイレで、衣服を洗う、おじいさんに、声を掛けた。

服を持っていますが、必要ですか。

どんなもの。

私は、それを取り出して、幾つか、見せた。

おじいさんは、頭を振る。いらないということだ。

 

次に、別の、おじさんに、声をかけた。

その、おじさんも、見せると、いらないと言う。

 

はて、どうしてなんだろう。

 

ホテルに向かう時、もう一人の、おじさんにも、声を掛けたが、同じ反応である。

 

私は、諦めて、ホテルに向かった。

丁度、十二時を過ぎていた。

予約番号を伝えると、チェックインは、三時であるという。

 

私は、荷物を預けて、昼の食事をするために、ホテルを、出た。

 

国道に出て、その通りにある、店に入った。

夜は、1500円の、定食が、ランチタイムで、990円という、看板を見て、よし、それにしようと、入った。

 

沖縄の特産物いっぱいの、定食である。

野菜のてんぷらが、充実していた。皆、沖縄の野菜である。

モズクもあった。色々あった。そして、麦飯である。

 

夜なら、1500円と、思うと、ホント得した気分である。

 

さて、ホテルに、戻ると、一時を過ぎていた。

フロントの、女性が、部屋の準備が出来ましたので、お入り下さいという。

さらに、大き目の部屋にしましたと、言う。

 

予約した時は、二人での予約で、一人で泊まると言ったが、融通性がある。

まして、まだ二時間も早い。

 

これが、沖縄である。

タイ、他のアジアの国のようである。

 

インターネットも、無料で、使い放題であると、言われた。

ほとんど、それを、使うのは、私だけだった。

何とも、ほんわかとした、ムードである。

 

以後、従業員は、皆、そんな調子だった。

 

沖縄の新聞も、くれた。

食事券も、620円で、買ったものを、使用しなかったというと、翌日の日付で、訂正してくれる。

 

二人部屋なので、夜に女でも、入れるのかと、思っていた風は、あるが、それはなかったので、変だと、思ったようでもあるが、実に、親切だった。

 

部屋に入り、一息ついて、どうしても、肉が食べたいと、夜は、ステーキにしようと、案内の雑誌を見て、捜した。

 

何故、肉が食べたくなかったのかは、慰霊のことである。

その、慰霊地の時に、書くことにする。

 

那覇は、晴天で、夜も、鋭い月が、出ていた。

見事な月だった。

三日月というより、もっと、細い、刀のような、月だった。

 

六時頃に、タクシーに乗り、国際通りに向かった。

2630円の、ステーキコースを食べるために、出たのである。

 

旅行中の食事としては、贅沢なものである。

国際通りに、面したその店は、アメリカ人経営の店だった。

まだ、お客が少なく、私は一人、大きな鉄板の席に、案内された。