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フィリピンは太平洋戦争の戦場となりました。
戦争犠牲者は111万人にのぼります。
日本もまた50万人の戦没者を遺しました。
フィリピンは米国といっしょに日本と戦いました。
残虐行為も各地で行われたといいます。
マニラのサンチャゴ要塞では、多くのフィリピン人が、命をおとしました。
その場所で追悼慰霊を行いました。
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※マニラ大聖堂の表門。たくさんの人が礼拝に来ていた。 |
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※サンチャゴ要塞は観光地になっていた。土日にはライブ演奏もあるという。
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※フィリピンの国民的英雄、ホセ・リサールが処刑されるまでの最後の時を過ごした場所でもある。
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※ずらりと砲座がならんでいる。スペイン統治時代からある要塞。
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※警備員の青年と。ショットガンはもちろんほんもの。私たちをさいごまでみまもっていた。
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要塞の地下牢では、フィリピン人が水ぜめにあって亡くなりました。
もともと、スペイン統治時代は、囚人を閉じ込めておく、牢獄だったそうです。
太平洋戦争の犠牲者も多いですが、それより前に多くの人が無念の最後をとげたことでしょう。
追悼をしている間に、闇に葬られた過去からの怨念、としかいいようのないものを感じました。
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※対岸はスラムである。河はよどみ、濁っていた。
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※地下牢に降りる階段が、ひとつだけあった。このときは、真っ暗で何も見えなかった。写真で見ると、ゴミだらけだ。ここでどれだけの人が命をおとしたのか。
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追悼慰霊をひとまず終え、御幣を河に投げこみました。
すぐ下には遊歩道があり、御幣がその上におちました。
水に流すまでが慰霊ととらえ、一度要塞を出て、遊歩道まで降りました。
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要塞を歩く観光客に手をふっていた家族です。遊歩道の一部に住んでいました。
ちょうど支援物資を持っていたので、子供服を手渡すことができました。
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※大人用の服もいくつかあったので、手渡した。通常慰霊と子供服支援はいちどには行わないが、こういうこともある。
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※この人たちはどこから来たのか気になった。この周辺に寝ている人がたくさんいた。
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木村天山の向こうに見えるのが、要塞です。
路上生活者の女性たちが、あとを追ってきました。
しかしすでに支援物資はなく、またの機会にと諦めてもらいました。
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もう一度、祓い清めを行います。
要塞の上での慰霊は、地下牢で亡くなった方たちの上からやっていたことになります。
いちど、下に降りて、彼らと同じ目線になる必要があったのかもしれません。
こんどは無事、御幣を河に流すことが出来ました。
マニラで行った子供服支援の様子もご覧下さい。
■子供服支援 昼の部
■夜の部
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※タイなどでは、川の上を流れていった御幣だが、フィリピンでは様子が違った。水面にはりつくように微動だにせず、そのまま、下にひっぱりこまれるように沈んでいった。 |
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※その場にいた男性も、その様子を指さし、おどろいていた。御幣は、それこそ映画のワンシーンのように、ゆっくりと姿を消したのである・・・・・・ |
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