木村天山旅日記

 フィリピンへ
 
平成21年
 1月
 

 第3話

焼肉屋は、日本人経営の店であった。それは、店員が、日本語を話すから、解った。

 

二人で食べて、1500ペソ程度で、3000円であるから、大変高い値段である。勿論、日本では、比べ物にならない程、安い。

 

私が、安いとか、高いというのは、現地の通常の価格に対してである。

200円程度の食事が、普通ならば、高いのである。

 

その日は、アルコールは、飲まなかった。

疲れると、てきめんに、アルコールを欲しない。

 

その店を、出て、少し歩き、ショーのあるレディボーイの店に入った。

コータが、あらかじめ、調べていたのだ。

日本のニューハーフショーは、フィリピンが発祥である。

それを、初めて、日本に紹介したのは、札幌の、ある店だった。

当時は、画期的だった。

 

男が、女より美しくあるという、触れ込みであった。

 

私も、その店で、初めて、ニューハーフショーを見た。

もう、25年ほど前である。

 

だが、フィリピンでは、廃れた。

今も、その手の店は、あるが、あまり、客が入らない。

 

その店も、老舗であった。しかし、最初は、私達二人だけが、客だった。

そのうちに、二組の客が入って来た。日本人である。

 

あまり、煩いので、私達は、ショーの前に店を出た。

音も、会話も、煩いのである。それに、英語だから、疲れる。はりきっているのは、解るが、そのテンションについてゆけないのである。

 

二人の、レディボーイに、ご馳走して、会計は、3000ペソを超えた。6000円である。大変な出費だった。

 

それで、明日も来て、である。

日本人は、金持ちであると、見ている。

それ程の、出費をして、得るものは、無かった。

大半は、お金がなく、手術をしていない、男の体のレディーである。

 

それから、ぶらぶらと歩いて、通りの角の店の前の椅子に座った。

そこが、ゲイの店であることが、解ったのは、日本語が出来るフィリピン人に逢ったからである。

日本に、働きに来ていたという、二人のフィリピン人男性に逢った。

更に、その彼氏は、オーストラリア人であった。そして、その友人の、マレーシア人も、日本で働いていたことがあるという。

四人でいたテーブルの横に、座ったのだ。

 

マレーシア人から、貴重な話を聞いた。

彼の、家の近くに、日本兵の墓があるという。しかし、今は、誰も訪れる人がなく、墓は、荒れているという。

もし、私達が、来るなら、案内するというものだった。

コータが、英語で、私達の活動を話したことで、その話になった。

 

確かに、マレーシアに慰霊に行く人は、聞いたことがない。

これは、貴重な情報であるから、コータに、彼の連絡先を聞いて貰った。

 

彼らは、大変親切だった。何か、必要ならば、協力しますと言う。

私は、一時間ほど、マッサージがしたいと言うと、近くにあるので、案内すると言う。

男のマッサージ師がいる店だというので、案内して貰うことにした。

コータをそこに置いて出掛けた。

 

タイのような、マッサージは無い。

オイルマッサージが、一時間で、サウナ、風呂付で、900ペソである。高い。しかし、折角案内してくれたと、受けることにした。

 

その時、何気なく、時計を見た。

その時計を、暫く見つめていた。

10:30であった。

もうこんな時間なのかと、思った。

日本時間では、11:30である。丁度、妹が亡くなった時間である。

それを、知らずに、私はマッサージを受けていた。

その、技には、納得したが、後が悪い。

マッサージの男は、色気で、挑発してきた。

終わる頃だったので、次の時にということで、断り、早々に、店を出た。

 

コータが待つ店に行くと、皆で楽しそうに会話していた。

私は、座らずに、そのまま、帰ることにした。

一人のフィリピン人の男は、電話番号まで、書いてくれ、何かあったら、連絡をと言う。

だが、一度も、連絡しなかった。

 

マニラの風に、慣れていないせいか、疲れた。

そのまま、ゲストハウスに戻り、別々の部屋で、寝た。

 

道で少年から買った、花をコップに生けた。20ペソだった。

マニラでは、少年少女も働いている。

お金がなくて、学校に行かない子もいる。

義務教育は、お金が掛からないが、文具などを買えないのである。

朝も昼も、夜も働く子がいる。

 

幼稚園児のような子も、花売りをしている。家族総出で、花を売り生活をしているのだ。

食って、寝るために、多くの人が、苦労している。当たり前のことだが、それが、目に見えて解るのが、マニラである。

これは、政治の問題でもある。

追々書くことにする。

 

フィリピンは、乾期である。

二月に、本格的な夏になる。

ところが、私には、少し涼しく感じられた。

夜は、涼しいというより、少し寒さを感じる。

 

部屋で、窓を開けていたが、寒さを感じた。

昼間も、とても暑いという感じは無い。

ただ、涼しいが、汗をかくのである。

不思議な暑さだった。

 

しかし、日に日に、暑さが増した。

帰国する頃は、昼間は、特に暑いのである。夜も、暑い。次第に、真夏に向かっていた。

 

ゲストハウスは、シーツのようなものを掛けて寝る。

毛布は、無い。

夜中は、少し寒い。

二日目の、夜である。

 

三日目の朝、どうしても、日本に電話をしたいと思った。

家族は、フィリピンに行くことを、凄く心配していたので、安心させたいと思った。勿論、妹の状態も、聞きたかった。

 

ゲストハウスの電話を借りて、実家に電話をした。

母が出た。

私だと、解ると、妹の名を言い、逝ってしまったと泣いた。

昨日の夜、11:30だと言った。

 

私に連絡したが、電話が繋がらなかったと言う。

タイの携帯電話で、フィリピンでは、繋がらないのだ。

 

兎に角、母を慰めて、また電話すると言い、電話を切った。

 

覚悟していたことである。

フィリピンに出掛ける前に、冬の北海道の実家に、14年振りに、戻った。

妹の手当てをするためである。

そして、最後の別れであった。

 

部屋に戻り、暫く、声を上げて、泣いた。

父のときは、納得し、安心したが、矢張り、妹は、若い。

母よりも、私よりも、先に逝った。

悲しい。

ただ、悲しい。

 

人が死ぬのは、悲しい。

理屈も何も無い。

落ち着いてから、歌を読み始めた。

妹との、思い出が、宝物になった。

 

悲しくて 切なくてなお 妹を 泣きながら呼ぶ 我はあはれか