木村天山旅日記

 フィリピンへ
 
平成21年
 1月
 

 第6話

フィリピン、メトロ・マニラは、マニラ首都圏として、マニラ市をはじめ、17の行政地域の集合体である。

 

フィリピン最大の島、ルソン島の、中央に位置する。

西は、マニラ湾であり、北には、パンパンガ川によって、造られた広大な扇状地であり、南は、大小様々な火山が連なる。

 

私が、出掛けたマニラは、南地区になり、特に観光地としての、エルミタ地区と、マラテ地区である。

その南に、国際空港の、ニノイ・アキノ空港がある。

そこから、エルミタ地区までは、タクシーで、30分程度である。

道が空いていると、20分も、かからない。

料金は、230ペソから、300ペソ程度である。

 

観光地には、観光地の注意がある。

スリ、詐欺、窃盗などである。

夜は、特に注意である。

 

和食のレストランも多く、値段は高めだが、時々なら、安心する。

 

その地区に、10日間滞在することになったという、顛末である。

 

一度、空港に近い、バクラランという所に、ジプニーで出掛けたが、大変な道だった。

渋滞し、空気は、汚いし、乗り心地は、悪いしである。

 

帰りは、そこから、高架鉄道に乗って、戻った。その方が、楽々だった。

 

少し辺りを、動くのは、ジプニーであるが、遠くに行くなら、高架鉄道である。

 

実は、バクラランで、泊まりたいと思ったのだが、ホテルを回って、驚いた。

汚い、臭いのである。

その駅の周辺は、言い表せない程、混雑していた。

地元の、市場が多く、人人人である。

 

暑さと、人の波で、眩暈がした。

 

さて、乗り物では、カレッサという、馬車もある。そして、バイクで走る乗り物、トライシクルである。それに似たもので、自転車で、二人程度を乗せて走る、サイドカーである。

 

エルミタでは、特に多いが、料金が高い。40ペソと、言われる。80円である。

観光用である。

 

バクラランから戻り、ホテルで、休み、マニラに居ることに覚悟を決めて、それでは、どうするかと、思案した。

 

まず、残りの衣服を配ること。そして、慰霊を行う。

その場所は、二箇所である。

 

サンチャゴ要塞と、マニラ湾での、慰霊である。

 

ただし、どのようにするのかは、行ってみなければ、解らない。

 

コータにそれを告げて、食事に出ることにした。

ホテル沿いにあった、地元の人が行く、食堂に向かった。

 

春雨と、イカの煮付けを注文した。

ライスは、どうかと言われて、春雨で、十分だったので、断る。

兎に角、安いのである。

二人で、100ペソ程度。200円である。

 

昨日食べた、焼肉が、1500ペソ、3000円であるから、安さが解る。

 

いつもそうであるが、決して、日本円で、考えない。

現地の価格で、考える。

 

日本円で、考えると、大した事はないと思うが、それを続けていると、お金が続かない。

観光ではない。

慰霊と支援である。

贅沢なことは、よほどでなければ、慎む。

 

ただ、水と、氷には、注意する。

現地の水は、飲まない。

必ず、ミネラルウォーターと言う。

 

食事を済ませて、部屋に戻り、支援物資の内容を、確認する。

子供服も、少しあり、大人用が残っている。更に、ぬいぐるみ、である。これには、手をつけていない。

果たして、ぬいぐるみは、ここでは、喜ばれるだろうかと、思った。

 

荷物が少なくなるということは、嬉しいが、レイテ島に行けないということが、心残りだった。

 

ベッドで、少し休む。

妹のことを思い出す。

一日置いて、通夜、そして、葬儀である。

 

コータが、携帯電話を、フィリピン用に使用出来るようにしてくれた。

そのお蔭で、私は、毎日、実家に電話することが、出来た。

そして、通夜、葬儀の時間に合わせて、私も、妹の霊位に、祈った。

 

切なく、悲しいことだが、私の活動を知っていることで、妹は、ただ、存在感を持って、私に、コンタクトしてきた。

一度だけ、夜に出掛けようとした時、兄ちゃん止めな、という言葉が浮かんだので、部屋にいることにした。

 

葬儀の時間は、海辺に出て、太陽に祈っていた。

 

私の見ているものを、妹も見ている。

祝詞は、唱えない。

静かに、黙祷を捧げた。

 

すべてが、終わったであろう、時間に、実家に電話をすると、無事に滞りなく、済ませたと、母が言うのを聞いて、安堵した。

 

お知らせは、一人にだけした。

父の時は、多くの人に、志をいただいたので、今回は、私の密葬にした。

 

夜、コータと、和食の店に出掛けた。

歩いて、10分程の所である。

その間には、夜の店が、並んでいる。

 

兎に角、古い建物である。

そして、木造建てが多い。

更に、小道に入ると、地元の人の屋台が、並ぶ。

道端で、食べ物を売るのである。

 

その、炭焼きの煙が、目に染みる。

排気ガスと、それで、喉もやられる。

ジプニーから、タクシーから、車は、大混雑である。

その間を、抜けるように歩く。信号が、数えるほどしかないのであるから、車の間を、歩くしかない。

 

ベトナムの、ホーチミンを思い出した。

車の間を、走るように、向こう側へ渡るのである。

 

どんなものかと、私は、刺身定食にしてみた。

コータは、トンカツ定食である。

それぞれ、280ペソ程度。600円である。二人で、1200円。だが、ビールを一本注文し、支払いの段になると、サービス料と、税金で、15パーセント加算される。

料金が、高い程、それらも、高くなるから、私にすると、とても高い食事代に感じられる。

 

明日、慰霊と、支援をすることにした。

場所は、スペイン時代の、要塞、イントラムロスの中にある、サンチャゴ要塞である。

 

イントラムロスの中には、マニラ大聖堂があり、最古のカトリック教会、サン・オガスチン教会がある。

 

サン・オガスチン教会は、戦争でも、破壊されなかった教会であり、私は、是非、そこを見たいと思った。

当時の、想念が残り、色々なことが、解ると思った。

 

食事を終えて、早々にホテルに戻った。

コータは、夜の街に出るというので、今回は、部屋の扉を開けておくことは、出来ないと、鍵を、持たせた。

だが、幸運なことに、私の部屋の前は、ガードマンが、夜も常駐し、更に、十字架まで掛けられてある、神聖な場所である。

 

部屋の前なのである。

コータが、感心していた。

 

ここにねー、泊まることにー、なってたのーかーなー、である。

現に、ここに、最後の日まで、泊まることになった。