第9話
ホテルの朝食は、楽しかった。
バイキングである。
好きなだけ食べられる。
レストランのテラスに出て、食事をする。
一番乗りは、私であり、そして、辻友子がやってくる。
一番遅いのが、コータである。
何度も、立ち上がり、料理や、飲み物を取りに行く。
食事のときに、他のお客と、顔を合わせた。
中国の人が多かった。
日本人の、カップルにも、何組か会った。が、話はしない。
帰国日の、朝である。
ホテルの部屋一つを、夜九時まで、利用することにした。
迎えの車は、夜十時である。
ホテルのレストランで、夜の食事をして、そのまま、空港に向かう予定である。
支援物資が無くなり、荷物が、無い。
行きは大変だが、帰りは、楽々である。
本日は、クタ地区のマタハリデパートに出て、買い物をする。といっても、その一階にある、スーパーでの、買い物である。
スーパーの中に、おみやげ物も、売っている。そして、安い。
クタの街中で、売っている物は、高いのである。
私は、蝋燭と、お香を買う。
いつも、そうだ。タイに、出かけた時も、買うのは、それだけである。
それまで、部屋で休むことにした。
一泊だけ、サヌールであるから、五泊したことになる。
ボーイさん達とも、顔馴染みになる。
私は、廊下で、歌ったり、朝日に、拍手を打つので、特に、注目された。
辻友子も、朝の太陽を、拝していた。その拍手が、また、響く。
一度、朝早く、ホテルの前で、大きな声で、長崎の鐘を、歌った。
すると、隣近所の人が、感激してくれた。
更に、ホテルの厨房からも、大きな歌う声が聞こえた。
コックさんが、私に、負けじと歌っていたのだ。
レストランに入ると、コックさんが、私に、手を振る。
ホテル前の、商店のおじさんは、それから、毎朝、私に挨拶した。
そして、毎朝歌ってくれと、言う。
顔見知りが増えてゆく。
着物や、浴衣を着るので、一度で、覚えられるということもある。
誤魔化し両替屋は、私に声を掛けなくなった。
更に、一度、あることで、徹底的に、抗議した通りのホテルは、改装中なのか、営業しているのか、分からない。
どことなく、森閑としていた。
バリニーズも、日本の旅行会社も、巻き込んで、徹底的に、抗議したのである。
その後、ホテルから、営業改善の、親書が、送られてきた。
適当な、ボーイの対応から、部屋の設備の不備、そして、ホテルの付属のマッサージの、ボーイの、エロ作戦対応などなど、である。
マッサージルームで、セックスにまで、持ち込もうとした、ボーイは、日本人の女なら、喜ぶと、思っていたのである。
それに、引っかかった、日本の女も、多くいたと、思われる。
私には、冗談ではなかった。
日本人は、無理やりすれば、抵抗しないという、舐めた態度と、気持ちが、許せなかったのだ。
ということで、今回の、旅日記は、終わる。
出国も、入国も、何事も無く、スムーズ。
インフルエンザの、騒動も、どこ吹く風。
成田では、何事かあるのかと、思いきや。何もなし。
あれは、マスコミの、報道の仕方に問題がある。
あたかも、24時間、厳戒態勢のような、報道である。
健康状態の申告書に、記入して、オッケーである。
実は、私たちは、期待していた。
もしかしたら、無料で、色々な検査を受けられるかもしれないと。
辻友子などは、乳がん検査や、レントゲンまで撮ってもらおうと、思っていた。更に、血液検査で、どこか、悪いところが無いかと。
更に、疑いがあると、ホテルに、国のお金で、泊まれるという、期待。
ホテルに、留まって、しばらく、ゆっくり過ごす。
朝昼晩の、食事も、出るし・・・である。
だが、全く、そんな気配もなかった。
残念。
税関でも、何も聞かれず、はい、どうぞ、である。
私は、国際ボランティアですと、答えを用意していたのに・・・
すぐに、バスに乗り、横浜に向かう。
もう、寝るしかない。
旅は、楽しい。
そして、決して、観光旅行では、味わうことの出来ない、人との付き合いである。
今度は、いつ来るの。
そういわれると、嬉しい。
いつ来るの
えーと、三ヶ月後で
適当に言ってしまう。
次のバリ島行きは、年が明けてからである。
そして、私は、また、年を取っているのである。
あはれとも
気の毒なりと
思はざり
それ定めなり
生き抜くことを
|
|