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私は人生を「死ぬまでの暇つぶし」と心得ている。
古来から人生は、「借りの宿り」と形容されてきた。それは、たかだか100年にも満たない人生で、何が解るものかという意識である。この生きている人生が、すべてであるはずがないということと、一寸、旅に出たという感覚で生きることに、ある妙味があると考えたのであろう。
だが、私は心霊学も成すものであるから、人生が、旅であると確信出来る。この世は、現象の世界であり、あの世は、実在の世界であると。しかし、これについては、今は多くを語らない。
私は、和芸家元(いけばな・茶の湯・舞踊・着付け)を名乗り、占師であり、今は、音楽プロデューサーである。そして、小説を書き、作詞作曲をする。だが、限定されることを嫌う私は、何者でも、何様でもない。
死ねば、50年程で完全に忘れられる存在である。その程度の人間であると、いつも考えているから、傲慢になることはない。
私は、自分が完全なる自由を有している魂を持つものであり、この世の何物も、私を束縛することは出来ない。不自由な肉体と心と、精神を魂に張り付けて生きているということである。
それを知って、知らない振りをして生きる。つまり、迷った振りをして生きる。そこに、生きる妙味がある。
この時代に魂を転生させたのだから、この時代の現実との折り合いを楽しむべく、私は生きている。
私は、今まで、一人勝手で、学んできた。哲学も宗教も、文学も、占術等々と。純粋に心の欲するところに従って、独学してきた。だから、私の学問は、何にも毒されていない。偏狭な思想の一欠けらも持ち合わせていない。その証拠に、私はキリスト教、仏教、神道の祈りを、平気で織り混ぜてすることが出来る。私は、私が咀嚼して、私に変容させて、私の器に入れてみて、そして、それを突き放して眺める。
私の人生の主人は私であるから、何にも毒されないのである。
具体的に私の考え方を言うと、私は、この世に、私と皆さんしかないと考える。男と女と区分けてしまうような、考え方はない。この世には、私と皆さんがいる。と、私の考え方は、すべてオリジナルである。
私は男として生まれたが、私の中では、男も女もない。あるのは、私という人間と、皆さんという人間である。話を、もっと分かりやすくすると、私は異性愛者にも、同性愛者にも、バイセクシャルにもなれるということである。何でもありである。それは、私が自分を限定することがないからである。
生きるというこは演じることであり、その何物でもない。何を演じるのかは、私が決める。今回の人生で、私は無限定の私を生きることにしたのである。
この世で、確実に明確なことは、私が存在するということである。そして、その私はまた確実に死ぬ者である。死ぬ者であることを、毎日の生活の糧として、生きる。
死ぬ者であることを、得心する私には、何一つ、恐れるものがない。
そう、人生の最大のテーマは死ぬことなのである。この世に死と格闘して成り立たないものは一つもない。神も仏も死後の世界で逢うことが出来ても、人間の死に対しては、いっさい手だし出来ない。死ぬことこそ、私が主体的に私に成り得る最大の現実なのである。
その死は、黙っていても死ぬというところに、秘密がある。
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