木村天山旅日記

タイ・ラオスへ 平成20年2月

第三話

メコン河の流れは、雄大である。

たゆたう、如くに流れている。

向こうには、ラオスが見える。

 

8日、私は、野中をラオスの、国境まで送った。その足で、ノーン・カーイの町を巡った。といっても、トゥクトゥクの男が、回ると言うのだ。

観光見物は好きではないが、連れまわされた。

 

市内見学を終わると、二時間が過ぎていた。

本当は、一時間のはずである。

すると、トゥクトゥクの男が、二時間だから、一時間、200バーツで、400バーツだと言う。

その通りであるが、私の約束したのは、一時間である。

 

相手が、確認しなかったことも、悪い。また、私が、一時間を過ぎたことを、言わなかったことも、悪い。

 

私は、男に、譲らず、あなたの、ミステイクだと、繰り返した。

相手も、よく解らないと、英語で言う。

 

最後に、私は、200バーツを出し、そして、100バーツを、チップだと言って、渡した。

男は、どうしても、400バーツが欲しいらしいが、私は、平然として、ゲストハウスに入った。

暫く、男は、留まっていたが、そのうちに、エンジンを掛けて、行った。

 

こういう場合は、相手の言いなりになるという、方法もあるが、私は、これからのために、妥協しなかった。

実際、私は、市内見学は、ほどほどで、良かったのだ。

日本人の悪い癖で、ついつい、相手に、乗ってしまう。

 

トゥクトゥクとは、バイクの後部に、二人用の座席を作って、お客を乗せるものである。

男は、街中の人ではなく、観光客専門の者だったと思う。

つまり、20バーツや、30バーツの、仕事はしない。大物を狙うのだ。

 

それっきり、その男には、会わなかった。

 

ゲストハウスで、過ごす一人の時間が、始まった。

 

まず、食べ物を、どこで食べるかである。

ゲストハウスの付近には、多くの食べ物屋がある。

地元の人を対象にした、食堂、欧米人向けの食堂、レストランである。

 

私は、地元の人の行く、食堂に出掛けることにした。

メコン河沿いにある、オープンハウスの食堂である。

 

店先で、鶏肉、豚肉、ソーセージ、その他を、焼いている。

ここ、ノーン・カーイは、鶏肉の産地であるという。

 

私は、もち米と、サラダを頼んだ。

と言っても、言葉が通じないから、指で指して、欲しいものを、言う。

もち米は、竹の米びつを指し、サラダは、店先にあったものを、指した。

この、サラダが好きになる。名前を、後で知る。

 

もち米は、日本の赤飯を食べる感じに似る。もち米だけ食べても、十分だ。

 

食べ終えて、清算すると、45バーツである。約、150円。

 

夜のために、店先で焼いていた、鳥のモモ肉を買う。

ついでに、豚のソーセージも買う。手作りである。

 

一度、部屋に戻り、体を横にする。

食べた後は、休むに、限る。

 

実は、私は、タイパンツと、Tシャツで、過ごしていたが、何となく、寒く感じていた。

それで、注意深く考えてみると、この地の、気候が、今までにない、ものだと気づく。

 

つまり、24時間のうちに、日本の四季があるのだ。信じられないようだが、まさしく、そうなのだ。

 

明け方の寒さは、冬である。そして、次第に、春に向かう。正午を過ぎると、夏になるのである。そして、夕方は、秋である。

 

その証拠に、人々の服装を見る。

一番、手っ取り早いのは、子供たちである。

皆、てんでに、季節の服装をしている。

ある子は、夏服、ある子は、冬服というように。

 

翌日の、朝は、格別に、寒かった。

Tシャツで、下に降りると、ゲストハウスのオーナーが、防寒服を着ていた。そして、私に、そんな格好で、大丈夫かと言うのである。

 

タイという国は、どこもかしこも、暖かい訳ではない。

 

時間差によって、温度の幅が、実に大きいのである。

 

ここは、ラオスとの国境に、位置する、タイ東北部、イサーンである。

風の強いのは、川風のせいである。

 

他のタイの人は、イサーン人を、やや軽蔑するように、イサーン人と呼ぶ。

これには、長い、物語がある。

18世紀末から、20世紀初頭にかけてのことである。

 

最初に、インドシナ半島で、植民地化を進めたのは、イギリスである。

次いで、フランスが、東から、半島を狙った。フランスは、アヘン戦争後、中国と条約を結び、中国進出を本格化させる。そのための、拠点をベトナムに求めた。

1847年、逮捕された宣教師の釈放を求めて、ダナン港を攻撃する。さらに、ダナンの割譲を求めて、1856年以降、断続的に、攻撃が続く。

ついに、1862年、フランスは、コーチシナを獲得する。これが、フランスのインドシナ植民地化の、第一である。

 

さらに、フランスは、メコン川を通り、中国に進出するルートを確保することを、画策する。さらに、そこから上流は、カンボジアである。

カンボジアと、1863年に、保護条約を結ぶ。

しかし、タイ側は、カンボジアの宗主権は、タイにあるとして、保護条約に反発する。

だが、フランスは、ベトナムが、カンボジアに持つ、宗主権を根拠に、タイに譲歩を求める。これにより、1867年、タイ仏条約が結ばれ、タイとカンボジアの保護条約の破棄と、フランスのカンボジア支配権を、認めることとなった。

 

カンボジアを手に入れたフランスは、さらに、ベトナム全土を、保護国化したのが、1884

年である。

 

ベトナムを確保すると、次は、メコン河流域の、ラオスである。

紆余曲折を経て、1888年国境画定交渉を行い、タイの属国の、ルアンプラバーンの支配下にあった、シップソーンチュタイが、フランス領となる。

タイ族の居住地であったものの、バンコクとは、今まで関係が無かった土地である。

 

フランスは、さらに、メコン河の左岸(東側)の全域確保に進み、1893年、メコン左岸から、タイ軍を撤退させるよう、要求したが、タイが拒否したため、フランスは、軍事行動を起こす。

パークナーム事件と、呼ばれる事態である。

 

結果、タイ側は、フランスの要求を全面的に、受け入れる。

300万フランの賠償金と、メコン川左岸と、メコン右岸25キロ地帯と、カンボジア北西部の、非武装化と、徴税権喪失である。

これにより、メコン河左岸は、すべて、フランス領となり、メコン河が、国境線としての、機能を持つことになる。

 

ただ、フランスは、これだけに、留まらなかった。本当は、タイ全土を、植民地化したかったのである。

しかし、1886年に、ビルマ全土を植民地化した、イギリスがいる。

両国は、1896年、英仏宣言を発表して、チャオプラヤー川流域を、緩衝地帯とする。

この、緩衝地帯は、バンコクから、北部タイまでは、含まれていたが、メコン河流域の、東北部、マレー半島は、除外された。

 

東北部と、マレー半島に、英仏が、それぞれ、進出しあうことを相互に容認する内容である。

 

東北部とは、イサーンのことである。

 

1909年の、領土、割譲によるまで、東北部は、タイではなかったのである。

およそ、100年前に、現在のタイの地図に、入ったのである。

不運である。

その時、ラオスから、タイとなった東北部に、人々が、流れたという。

先祖に、ラオス人が、多いはずである。