木村天山旅日記

 

アボリジニへの旅
平成20年7月 

 

第10話

白人種を最上層に置き、有色人種を、色の順に並べ、最も色の黒い人種を、最下層におく。

動物は、貝類を最下層にし、昆虫類、魚類、鳥類、獣類をへて、人間の最低の資質に近いとされる、犬、猿、、そして、野蛮な、ホッテントットなどが、くると考えられた。

 

この、概念は、ギリシャ、ローマ時代から、中世へと、続く。

すべての、生命体は、階層化されていて、その階層には、順列があり、互いに連鎖して、存在すると考える、偉大なる存在の鎖、といわれる、考え方である。

 

それが、17世紀以降になり、異なる人種を、階層化し、順列をつけるものと、発展した。

 

更に、私は、それに、キリスト教を、加えるものである。

キリスト教を信じる者が、最上層であるという、傲慢である。

 

アボリジニを、人間の中での、最下層であり、動物より、わずかに、上の存在として、認識したという。

人類の歴史の中では、もっとも、劣等で、知性は、猿と人の間であると。

物質的文化面でも、文明の度合いからも、ゼロに等しい存在であると、なるのである。

 

さらに悪いことに、ダーウィンの進化論、種の起源、人間の進化と性淘汰、という、考え方が、拍車をかけたのである。それを、悪用したということである。

 

この、概念が、当時の人種の概念に、上乗せされて、19世紀の、植民地政策を、推し進めたのである。

 

更に悪いことが、起こる。

イギリスの、社会学者である、ハーバート・スペンサーは、社会進化論を持ち出して、人種差別を容認する、意見を発表する。

そこでは、競争社会において、生活に失敗した者は、滅びの道を歩むことになるというものである。

 

私に言わせれば、何のことは無い、弱肉強食の、動物の世界のことであるが、学者となると、社会進化論ということになる。

アホか。

 

人類の進歩のためには、弱者は、強者に、道を譲るべきだとする、理論が、奴隷制、帝国主義を、推し進めたのである。

 

社会進化論は、勿論のこと、白人優越主義を、掲げるのである。

 

西洋文化は、進歩の自然法則に、従い、西洋文化は、世界を支配するように、定められていると、考えるのである。つまり、他の文化は、劣るものであり、滅びるものであるというのである。

 

ここで、文化人類学者も、よく書かないが、それは、キリスト教文化であるとも、いえる。

 

ちなみに、西洋文化が、いかに、遅れていたかは、歴史を見れば、一目瞭然である。

 

西洋が、言うところの、文明国とは、18世紀以降のことである。

それ以前は、世界で、もっとも貧しく、汚い国々であり、知的能力も、劣っていたのである。

 

文明という言葉は、都市化という意味の言葉の、訳である。

それならば、西洋は、最も遅れていたのである。

だが、都市化というのは、定義が定まらず、それは、つまり、文明というものも、何を持ってなのか、定まっていないということである。

 

オリエント文明とは、メソポタミア、エジプト文明を指すが、前3500年ほど前に、世界最初の文明と、西洋史は、記すが、誤りである。

それ以前に、アジア、アフリカ、南北アメリカには、文明が、存在していたのである。

 

ヨーロッパは、アラビアからの学問と、ギリシャ、ローマからの、考え方をもって、ルネサンスを起こした。そして、略奪によって、東洋と、同等に、相成ったのである。

ちなみに、ギリシャ哲学も、アラビアからの、逆輸入であるから、驚くのである。

すでに、アラビアでは、ギリシャ哲学が、翻訳されていたのである。

 

インダス文明が持つ高い文化が、ヨーロッパに現れたのは、18,9世紀なのである。

 

まだまだ、いいたいことはあるが、この辺で省略する。

ちなみに、イギリスに、小麦パンが、一般的に普及したのは、何と、18世紀に入ってからである。

つまり、中世では、農民は、小麦のパンを食べることが、出来なかったのである。

 

さて、社会進化論を、信じた、ヨーロッパ人は、植民地において、先住民に対して、好き放題である。

搾取は、勿論、残虐行為も、なんのその。

19世紀は、世界が、西洋によって、植民地化されてゆくなかで、西洋人以外は、人間性を、奪われるという事態に発展するのである。

 

アボリジニだけの、問題ではなくなってきたが、オーストラリアでの、アボリジニと白人の関係は、極めて悲劇的なものになったのである。

 

人種問題の根源は、社会進化論と、キリスト教の影響を、見逃すことは出来ない。

 

もしもヨーロッパ人がこの大陸に足を踏み入れなかったら、アボリジニは文明に達する道を閉ざされていたであろう。我々は彼らが消え去るのを嘆く必要はない。我々のできる最善のことは、せめて滅びる前の最後の日々を、なるべくみじめでない状況で見送ることである。

 

これ、学術書に書かれる言葉である。

 

アボリジニの滅亡は、単に、彼らが持ち込んだ、伝染病と、虐殺である。

劣等人種は、優劣人種に道を譲る。それが、自然の法則である。

それの行為が、何故、許されたのか。

キリスト教の、後ろ盾である。そして、武力と、偽物の科学である。

 

キリスト教、カトリック、プロテスタント、共に、手のつけられない、独善を持って、アボリジニに対処した。

政治の影に隠れて、今まで為したことの、謝罪など、全く無い。

さらに、今では、アボリジニ側に立つ者であり、彼らを保護していると、思い込む辺りは、救いようがないのである。

 

順に、彼らの行為を、検証するが、多くの学者は、この問題に触れないのである。

何故か。

チャーチと、チャペルを、敵に回すことが、出来ないからである。

だから、私が言う。

 

最も、今、ミッションたちの、助けがなければ、アボリジニたちは、困るのである。

そこまで、追い込まれてしまったのである。

だが、私は、真実を書く。

私など、書いたところで、何程のものでなし。

それで、アボリジニの皆さんを、苦境に陥らせることはない。

 

現在の、オーストラリアの問題は、国家を造るべくの、国家幻想の元であるところの、それは多く、神話による。

神話のある国は、それだけで、国家幻想と成り得るのである。

 

オーストラリアから、アボリジニを、無くせば、国家の幻想が、無くなる。つまり、神話を、持てないのである。また、新しく、創り出すことは、出来ない。

何故なら、それには、伝承と、伝統が、必要だからである。

 

私が、追悼慰霊行為を、するのは、天皇陛下のためであると、言ってもよい。

天皇陛下に、お返しする行為と、言っても、問題ないのである。

何となれば、天皇は、日本の神話を、有し、さらに、国家幻想の、理想的な、在り方であるからだ。

 

今、2668年の伝統の、家系など、作ることなど出来ない。

あの、あのである。共産国の、ソ連が、崩壊し、ロシアと、移行する際に、最も、必要としたものは、神話であり、幻想だった。

それを、一部の知識人たちは、ロシア正教に、求めた。

日本の、国家神道のようなものに、出来ないかと、考えたのである。

 

ロシアに伝統があるとしたら、ロシア正教くらいだという、驚きである。

 

オーストラリア政府は、今年の新年に、アボリジニに正式謝罪をしている。

その、同化政策である。更に、親子分離政策にである。

親子分離政策については、後で書く。

 

オーストラリアは、ゲイパレードで、世界一である。

ゲイだけの村もあるほどだ。

さて、このゲイは、マイノリティーとされて、長い間、辛苦の差別を受けていた。しかし、ここ、ここに至って、政治家を始めとし、あらゆる分野の人々が、ゲイパレードに参加するという、事態である。

 

アボリジニの差別を、最も理解出来るゲイたちが、更に、気勢を上げると、オーストラリアは、変化せざるを得ない。

 

アボリジニの神話、つまり、伝承と伝統を、必要不可欠とするのである。

オーストラリアには、アフリカを超える歴史がある可能性もあるという、仮説を立てて、研究も出来る。その際に、アボリジニの、研究が、欠かせないのである。

 

日本には、古事記、日本書記以前に、国記が、編纂されていたという、事実がある。

聖徳太子が、それに、当たったといわれる。

しかし、それ以前からのものもある。

これが、国家幻想を育てる、神話と、成り得るのである。

 

私は、日本の古代史を、みるにつけて、一度、ペルシャに渡り、再度、富士山麓に、王朝を拓いた、富士王朝をみている。

その、歴史を加えると、現在の天皇までに、9100年ほどの、歴史がある。

 

神話を、言い伝えとも言う。

言い伝えを持つ、民族は、生きるに強い。

そして、それぞれの民族にある、神話を、それぞれが、認め、尊重すれば、和を持つことが出来る。

 

それのない、共産、社会主義の国々は、未だに、迷いにある。

しかし、民が、倒れないのは、それとは別に、伝統としての、行為、それが、宗教行為であっても、あるからである。

 

王朝が、変わっても、タイには、仏教と、ピー信仰の伝統がある。

タイという国を、作るのは、その、伝承と伝統である。

それは、至るところの、民族にある。国にある。

 

オーストラリアの、これからを、考えることによって、再度、自国の伝承と伝統というものを、意識してみる。