木村天山旅日


 

  バリ島再考の旅
  
平成21年
  2月
 

 第12話

ジンバランの浜辺で、食事をして、ゲストハウスに戻った。

もう日は暮れて、真っ暗である。

 

向こうから、観光客を乗せた車が来るたびに、立ち止まり、道の端に寄った。

下を見て歩かないと、危ないし、車が来ると、危ないので、立ち止まる。

 

実は、食べ終わり、コータに言われて、他の店の料金を確認してみた。

最初の店は、道の前にあり、そこから、店が、浜辺に向かって、何件もある。

 

それぞれの、店の価格を見てから、入るべきだったと、気づくが、後の祭りである。

少しは、値切ったが、もっと、値切ることも出来たと、コータが言う。

 

実は、こんな話を、聞いていた。

 

要するに、タクシーや、観光案内の車に連れられて来る場合は、それらに、売り上げの半分が、手数料として、支払われるというものである。

それで、ホテルの、従業員にも、斡旋されたのである。

売り上げの半分とは、大した、金額である。

 

そこで、単独で、行く場合は、半額は、値切れると、聞いた。

つまり、コミッションが無いのだから、安くしろと言えるというのだ。

 

それは、何に対しても、言えた。

観光客には、最初から、値段の倍を、吹っかけるという。

一万と言われたら、千から、交渉して、五千円程度で、買うことだとの、アドバイスを得た。

 

しかし、これが、またストレスなのである。

特に、日本人は、それに慣れていないし、金額を考えると、大したことはないと、面倒臭くなり、諦める。

だから、日本人が、狙われるのである。

 

さて、通りに出て、ホテルに、向かう。

そこで、地元の商店に入り、水を買うことにした。

大型の、ペットボトルである。

 

3000ルピアであるが、店のおばさんが、4000という。

コータが、3000で買ったというと、すぐに、3000ルピアに、落とした。

 

水にも、種類があるから、それで、価格も違うが、観光客には、高く売るのが、常識になっている。

 

ゲストハウス近くなり、一台のタクシーが、私達の横に止まった。

タクシーに乗らないかということだ。

そこで、今ではなく、夜の、10:30に、空港に行くので、幾らかと、尋ねた。

運転手は、6万ルピアだという。

そこで、コータが、4万と交渉した。

それじゃあと、運転手が、5万と言う。

私は、それで、オッケーと言った。

 

ゲストハウスの前まで来てくれることになった。

 

これで、帰りの車が確保出来て、一安心である。

夜の場合は、タクシー料金が、倍になると、聞いていたので、まずますのところだった。

 

部屋には、扇風機のみで、エアコンが無いから、暑い。

黙っていても、じっとりと、汗ばむ。

私は、帰りの着替えは、空港の中ですることにした。

 

これから、帰国すると思うと、何故か、疲れを感じた。

だが、それだけではないことが、解った。

それは、ジンバランという土地である。

ここも、戦争時代に、戦った場所である。

 

清め祓いが、されていないと、感じた。

年月を経て、有耶無耶にされているのだ。

 

どういう訳か、コータが、デジュルドゥを吹き始めていた。それも、長い時間である。

タクシーが、迎えに来るまで、吹いていた。

私は、部屋の前の、椅子に座り、タバコをふかして過ごしていた。

 

二時間ほどを、過ごしていると、タクシー運転手が、部屋まで迎えに来た。

荷物を持って、彼は、車に運ぶ。

聞けば、旅行会社の、職員で、観光案内の、車サービスをしていた。

その時間帯は、仕事を終えて、個人的な時間である。

その時間を、自分の稼ぎに当てていたのだ。

 

空港に行く間、彼は、バリ島の、車チャーターの、基本料金を、私達に、教えてくれた。

それは、とっても、役に立った。

これから、それを目安に、料金交渉が出来る。

 

空港に着き、荷物を下ろして、私達が、空港に入るのを、見届けて、彼は、発車した。

そういう、礼儀を教えられているのだろう。

 

さて、空港に入り、私は、早速、着替えをした。

単の着物に着替えて、搭乗する姿になった。

出発には、まだまだ時間がある。

深夜便の、最後の便が、私達の乗る飛行機である。

 

飛行機の、搭乗手続きをして、出国審査に向かう。

すべて、スムーズである。

 

まだ、出発には、三時間ほどある。

深夜便に乗る人で、空港は、溢れていた。

しかし、0時を過ぎると、次第に人が、まばらになった。

免税店も、シャッターを下ろす。

 

バリコピを飲んで、一時間ほど、時間潰しをしたが、その店も、閉店するようで、私達は、店を出て、搭乗口に近い、ベンチに、荷物を置き、休んだ。

 

皆、ベンチで、寝ている。

 

私は、時計を見つつ、喫煙出来る場所に、何度も、出て、タバコを、ふかした。

次第に、空港の中は、静かになる。

 

漸く、搭乗口が、開いた。

深夜、二時である。

少し、出発が遅れている。

台北乗り継ぎであるから、長い、時間である。

 

乗り込んだ人々は、すぐに、寝込んでしまったようだ。

私も、寝た。

気づいた時、機内食の時間で、私は、それを食べようと思ったが、結局、それを頂く前に、また、眠ってしまった。

きっと、ほとんどの人が、機内食を食べなかったはずである。

 

台北には、七時過ぎに到着である。

それから、一時間半後に、成田に出発である。

 

台北の空港では、ドルを使い、コーヒーを飲み、水を買った。

どこでもそうだが、空港内の物は、高い。

 

台北も、一度降りたい街だが、そのチャンスは、無い。

台北でも、追悼慰霊をする必要があると、思っている。

 

三月は、ビルマに行き、五月は、バリ島コンサートツアーである。

それ以降の、予定は、決まっていない。

しかし、私は、それ以降も、追悼慰霊と、支援に向かう予定である。

 

今年で、三年目に入った、この活動は、私が、動けるまで、続ける覚悟である。

 

その後のこと、それは、後は野となれ、山となれ、なのである。