第三五話
藤岡は、私より先に、横浜の心療内科の病院を変えた。
私は、先生を変えるのに不安を覚えていた。
折角、良くなってきているという思いである。
藤岡は、パニック障害より、抑うつ系の方が強いと、私は見ていた。
そして、時に急に具合が悪くなるのである。
それが、突然だった。
木村さん・・・
ああ、具合が悪いのだと気づく。
藤岡の話しを聞く。
だが、聞いても、ただ聞くだけである。
兎に角、薬を飲ませる。
それ以外に、方法は無い。
藤岡の病歴に関しては、書けない。
藤岡の生育史の問題もある。
本人は、そんなことになるはずが無いと言っていたが・・・
だが、藤岡の歴史は、ある意味で、とても大変なものだったと想像する。
母と子と二人の生活。
母は、実家との縁を切り、遺産放棄もしていた。
たった二人の生活である。
時に、親戚の家に遊びに行ったというが、藤岡は、嫌で嫌で、たまらなかったと言う。それに、母は気づかなかった。
子供は、敏感である。
二人の置かれた、環境と、それに対する親戚の目を察知していたのである。
それは、もう、いい。
過去のことだ。
木村さんがいなければ、僕たち親子は、部屋も借りられないと、言うのである。
その、辛さと、切なさ。
それを、聞く私も辛い。
だから、成功しなければ・・・
二人の思いである。
のぶお君、来年は、お母さんを呼んで、暮らそう・・・
私の精一杯の言葉だった。
札幌公演の旅の手続きをする。
二泊三日の予定である。
その時、私は飛行機に乗る苦痛が減っていた。
薬を飲めば・・・
何とかなる。薬を信用したのである。
酷い時は、薬も信用出来なかった。
そして、それ以後、乗り物の恐怖が激減したのである。
後は、藤岡の突然の具合の悪さを、どうするかである。
そんな、ある日のこと。
藤岡が部屋に戻り、木村さん・・はい、と渡したものがある。
手に取ると、百万円だった。
どうしたの・・・
僕が稼いだお金・・・
どうして・・・
木村さんに、上げる・・・
そう・・・ああ、そう・・・
私は、それを受け取り、呆然とした。
考えてもいなかったことである。
いつの間に、百万を稼いだのか・・・
歌の道でなければ、幾らでも、稼ぐ事が出来た、藤岡である。
それなのに、どうして、歌の道を・・・
どうして・・・
こんな厳しい道を選ぶのか・・・
才能があると認められても、生活のために、それを捨てる人が大勢いる。
私は、それを和芸の世界で知っている。
才能が無くても、金の力で、成っている者もいる。
こんな大変な世界に、どうして・・・
自分に嘘をつくのが嫌だと、藤岡は言った。
まあ、私も人のことは、言えない。あのまま、札幌にいて、巨大流派に属していたら・・
毎日、ブラブラして、暮らしていた。
そういう、人間も知っている。
だが、それらは、私には、豚よりも悪いのである。
既得権益で、人の金を懐に入れる人間と変わらない。
金か、志か・・・
志を選ぶ。
藤岡も、そうだった。
だが、それは現実的には、大変なことである。
世の中、甘くないと、人は言う。
その通り、甘くない。つまり、金を手に入れた人間が強い。
この世は、金なのである。
人生の大半の問題は、金で、片がつく。
しかし、心のうちは、片がつかないのである。
だから・・・
あえて、やる。