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ある物語 54 

ある物語

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第五四話


三月に入り、私は藤岡のお母さんが入るマンションを探し始めた。
 
部屋の近くには、多くの不動産屋がある。
その一軒一軒を見て回る。
 
私の部屋から、歩いて10分以内の場所である。
藤岡も一緒に暮らすマンションでるから、2LDK以上の広さ。
 
多くの物件から、三件を選び、藤岡に伝えた。
それを、一緒に見に行くことにする。
 
まだ、肌寒い季節である。
川岸の桜が大きく枝を広げて、いよいよ蕾を膨らませる季節。
 
春間近である。
花粉症の藤岡は、マスクをつけていた。
 
不動産会社の担当者に連れられて、部屋を見学する。
 
まず、10階にある部屋。
そして、4階、2階の部屋である。
 
それぞれに、利点があったが・・・
10階の部屋は、母親には高過ぎるということで、止めた。
何か事があった際に、階数の低い方がいいということで・・・
 
私の部屋に近いのは、2階の部屋であるが・・・
兎に角、4階の部屋を見た。
藤岡が気に入った。
広さも思ったより広い。
 
だが、手続きの段階で、保証人の私が叔父というのが、引っ掛かった。
親族、特に、父親、兄弟などがいいのである。
 
それで、少し時間を取ってしまった。
 
結局、一番私の部屋に近い、2階のマンションに決まった。
 
歩いても3分程度であるから、本当に近い。
 
その時に、藤岡が、僕達親子は、木村さんがいなければ、部屋も借りられないんだよ・・・と、言う。
確かに、そうかもしれないが・・・
 
今は、保証人協会なるものもあり、それほど悲観することはないと、思っていた。
 
一年あまり、藤岡は私の部屋で過ごし、ようやく母親と一緒に住むことになる。
 
その三月は、東京にて、アカペラのリサイタルを開催した。
何度か利用した、響きの良いホールである。
場所も、有名な所であるから、問題はなかった。
 
更に、正月にコンサートを依頼されたホテルから、再度コンサートを依頼されていた。
今度は、ホテルのチャペルである。
 
伴奏も、新年の時と同じ方だった。
その方の、ご主人は作曲家でもあり、笛の奏者でもあった。
笛は、どんなものでも吹くという。
 
私は、いずれ私の作詞に曲をつけて、藤岡に歌わせたいと思っていたので、その出会いは、嬉しかった。
結果的には、別の作曲家に頼むことになったが、刺激を受けた。
 
作詞・・・
藤岡は、最初に、その作詞を見て、こんな詩に曲つけられるだろうか・・・
と、いったものだ。
 
それが、後の、逢いたくて、アガスティアなどである。
曲をつけ難いものとの、イメージだったようだ。
 
さて、引越しを三月下旬の平日とした。
土日は、混み合い、料金も高くなるので平日にした。
時間帯も、空いている時である。
 
料金に関しても、すべて私が行った。
それ以後、家賃も私が払うことにした。
 
引越しした日は、忘れられない日になった。
 
荷物を運び入れて、その夜、藤岡の母親を連れて、横浜駅西口近くの中華レストランに出掛けたのである。
決して、外では食べないという母親が、着いて来た。
 
そして、とても楽しそうだった。
 
藤岡が、寂しかったやろう・・・と、広島弁を使って話していた。
 
色々品物を見て、驚いていたが、兎に角、喜んでいる様子が忘れられない。
 
最後に、私が支払いをすると、高いじゃろう・・・と、私の顔を覗き、尋ねる。
私は、笑った。
お母さんも、笑った。
 
こうして、藤岡母子は、横浜暮らしを始めたのである。
 
藤岡は、帰る部屋が出来た。
勿論、今までのように、私の部屋で過ごす時間が長いが、帰るという部屋が出来たことは、良い事だった。
 
新しい生活は、四月、春である。
まもなく、桜の蕾が全開する季節になる。
 
一足早く、柳の緑が眩しく輝く。
 
更に私は、どんどんと、コンサートの予定を立てていた。
その中に、日本の歌、日本歌曲のリサイタルもいれた。
 
そして、そこからヒントを得て、日本の歌を解説して進めるコンサートの企画も生まれた。


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