第十七話
まりちゃんが来た年から、藤岡は、オーディションなるものに応募し始めた。
四つの、オーディションを受けることになる。
そのための、レッスンが始まっていた。
目的があるのは、いいことだった。
その間、私とまりちゃんは、よく、部屋を行き来していた。
私も、気分転換になり、とても助かった。
まりちゃんに、私が鎌倉で、いけばなや茶の湯を教えるのは、どうですかと何度か促されたが、私には教える気が無かった。
教えるということは責任が伴う。
ある程度、その土地に馴染み、更にその土地で少なくとも、十年ほどは覚悟して住むことになる。
果たして鎌倉に十年、住むだろうか・・・
藤岡も、まりちゃんが来ると、饒舌に話しをする。
それも、大変な気分転換になったと思う。
ただ、藤岡の饒舌は多分に薬のせいもあった。
まりちゃんが帰り、薬の成分が切れてくると次第に鬱々とする。
それを、具合が悪いと言っていた。
その頃は、私の方にも動きがあり、ある著名な整体の先生とやり取りが始まった。
東京に道場を持つ先生で、いずれは私を講師に、茶の湯などを開催したいとのことだった。
実は、その先生とは鎌倉に来る前からの知り合いであり、一度、田園調布に治療院があった頃に先生に依頼されてお茶会をしている。
治療院といっても大きな家で茶室もあった。
著名人20人ばかりを招待しての茶会だったから、私も、そこで多くの著名人と会うことになった。
その人たちの名前を書くことや人に教えることはなかった。
今も活躍する芸能人、有名な歯科医、芸術家・・・
札幌にいた頃も北海道では有名な経営者などと交流することになるが、人には一切、語らなかった。
それでも多くの人から、その人への橋渡しを頼まれた。
実に、それは嫌なことだった。
私も彼らに一度たりとも何事かを頼んだことは無い。
お弟子さんの中には、モデルさんたちも多く、更に結婚相手は医者が多かった。
病院を選ぶ際には、お弟子さんの紹介で出掛けたこともあるが、相手が医者だが私は先生といわれるので、それが嫌で出来る限り知らない病院に行った。
藤岡は、そんな人と私が交流があるということを、鎌倉に来て知り、驚いていた。
だから藤岡も、私が東京で仕事をすることを期待していた。
さて、藤岡のオーディションである。
すべてのオーディションに私は付き添った。
それは、大変な苦痛な電車に長く乗ることだったが、意を決して藤岡に付き添った。
そして四つのオーディションに、すべて合格、最優秀賞を頂いたものもある。
有名なオーディションもあった。
兎に角、それは喜びだった。
しかし、その喜びも一日のみだった。
藤岡が言った。
一日だけ少し気分が晴れたが、もう具合が悪いと。
それから、またレッスンに通う日々が続く。
何事もなかったかのようにである。
そのオーディションを開催した主催者からコンサート出演の打診がきはじめた。
それは、すべてチケットノルマのあるものである。
私に相談された。が、答えることが出来ない。
その世界のことを知らないのである。
そして藤岡が言った、誰かに聴いて貰う機会がなければ、どうにもならないから出ると。
私は賛成した。
それらは、二万から三万のチケットノルマがあった。
それは、私が半分以上処理した。
つまり、私の知り合いに連絡して来てもらうことにしたのだ。
そして、三度コンサートを聴いた。
私はその時、藤岡はこのようなコンサートで歌う必要は無いと感じた。
何せ、格が違うと思った。
更に、出演するクラシックの音楽家というものを実際に見る事が出来た。
この人たちがプロの音楽家になる可能性はゼロに近いと感じた。
素人の私でさえ下手糞だと思ったのである。
300名ホールから50名程度のホールまで私は聴いた。
その中で藤岡は輝き過ぎる。
だから、このような舞台ではない別の舞台が必要だと思った。
まりちゃんと、れい君が来てくれたコンサートもある。
帰りは四人で電車に乗る。
私は予め薬を飲んで対処していたが、一度パニックに襲われそうになった。
パニックに襲われると、それが固定観念となり、そこから脱するために、また元の苦労をすることになる。
だから、決してパニックを起こさないことだった。
何とか、その場は乗り越えたが、ほとほと電車に乗るのが嫌になった。
藤岡が、どうだったと尋ねるので本当の事を言った。
アンタは、こんな舞台ではない。全くイメージが違う。
発表会をするのではなく、歌を聴かせる舞台が必要だと言った。
何か、アドバイスは無いの・・・
そう言われて、一つだけ言った。
プロの意識を持ちなさいよ・・・
だから、練習の時のように体をあまり動かさないことだ。
実際、私は舞台の経験が豊富だった。
それは、舞踊だけではなく講演会等々である。
舞台に上がるとは発表会ではなくプロとして上がることなのである。
意識の問題である。
賢い藤岡は、素直に私のアドバイスを受け入れた。
レッスンの時のように藤岡は歌の強弱を腕を振り調子を取っていたのである。
だから今回で、このようなコンサートは終わりにしょうと言った。
解った。
藤岡は決心したように言った。
だが、それにより、その世界の厳しさを身に沁みて感じたのである。
この状態から、まず抜け切ることだった。