第三七話
開演時間が15分ほど遅れたので、休憩は10分とした。
それは、すべて私が口頭で言う。
二部のはじまる前に、私が舞台に立ち、少し話しをする。
久しぶりの毒舌に皆さん、楽しんでくれた。
そして、二部である。
スムーズに進む。
最後に、アンコールである。
二曲、藤岡が用意していた。
本当の最後は、アベ・マリアである。
それが本当に、響きよく、良かったと思う。
終演しても、多くの皆さんがホールから出ない。
ポツポツと出てくる人たちと、また話をする。
藤岡も出てきて、皆さんと挨拶している。
あーーー良かった。成功だ。
その際に、お会いした方で、今は他界された方もいる。
今から、10年以上も経てしまった。
札幌は、私の最初の舞台だった。
何も無い私が、札幌で活動し始めた頃、出会った人たち。
占い師としてテレビに出て、文化教室で、茶の湯、いけばな、着付け、舞踊などをはじめ、更にその後、タブロイド版の占い紙を発行したことが、嘘のようである。
37歳まで、私は猛烈に走り抜けた。
そして、38歳で一度、身を引いたつもりである。
そして、41歳で鎌倉に移転して・・・
後半の人生を考えていた最中に、藤岡のコンサートをすることになるとは、思うこともなかった。
コンサート後に私は、お弟子さんの一人に、是非話したいと言われた。そこで、そのままホテルのバーで、話すことにした。
藤岡と、ピアニストは、一緒にホテルに戻り食事をして貰うことにした。
そこで、衝撃的なことを聞いた。
そのお弟子さんは、音楽に非常に造詣が深い人だ。
私が椅子に座った途端に、言った。
あれは、駄目ですと。
えっ・・・
彼女が言った。
スラバを聴いています。そのリサイタルも。
この時、私は、スラバという歌手を知らない。
全く駄目ですよ、先生・・・
えっ・・・
スラバと全く別物ですね・・・
私は沈黙した。何せ、解らないのである。
彼女は、スラバというカウンターテナーについて、色々と話しをした。
その歌声の素晴らしさ、舞台での衣装・・・
そして、先生・・・
彼は、無理ですと、言う。
カウンターテナーとして、先生が応援しても、駄目ですと言うのである。
私には、彼女が言うことが、即、理解できないものだった。
ただ、黙ってきいていた。
スラバは・・・
彼女は、実に饒舌に話しをした。
その後、私はスラバに関して調べることになり、更に藤岡と、そのリサイタルにも行くことになる。
ただ、私には、衝撃だった。
彼女は、私のことを思い、忠告したのだろうが・・・
あれでは駄目だという彼女の説得の根拠が知りたくなった。
そして、私は西洋音楽、声楽というものを学ぶことになる。
それは、不本意なことだった。
興味の無いことである。
だが、一度、やると言ったからには、知る必要がある。
その話は、藤岡にはしなかった。
ホテルに戻り、ただ、休むだけである。
後味の悪いものになった。
ただ、藤岡が喜んでいるのが、救いだった。
翌日は、ピアニストと食事をして、彼女には先に帰って貰った。
少しの時間、藤岡が仕事のプレゼンテーションをする。
私は、チケットを委託販売してもらった店に行き、清算をして、残りの時間を、喫茶店で待つ。
藤岡と合流して、札幌駅に向かい、新千歳に行く。
兎に角、今回は成功だった。
次ぎは、新潟の番である。
走り出した以上は、続けること。
ただ、それだけである。
この、とても不安定な世界に、身を投げ入れたこと・・・
後悔するなどということもなかった。
ただ、続けて行くことなのである。
そして、私のパニック障害も自然に、治癒してゆくのだ。
これは、精神論ではない。確実に薬物療法である。