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ある物語 22 

ある物語

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第二二話
 
思い出したことがある。
藤岡は、師事していた先生の二度目の発表会に出たことである。
 
それは、まりちゃん夫婦も、私と一緒に出掛けたので、鎌倉生活二年目の、春先だったはずだ。
寒かったことを覚えている。
 
場所は、武蔵野市である。
何故、そんな所なのか、今では解らない。
東京まで出て、中央線で出掛けたはず。
 
一度、乗り換えである。
行く時は、良かったが、帰りが大変だった。
それは、乗客が多いから。
 
コンサートでは、藤岡がソロを歌ったはずだ。
だが、曲名が思い出せない。
 
二時間あまりのコンサートは疲れた。
休憩時間があり、少しホッとする。
 
クラシックコンサートは、一時間半で十分である。
二時間以上を超えると限界である。特にピアノの場合は無理である。
 
皆、歌詞が外国語であるから聴くのは曲だけ。
解説があっても読めない。
本番は場内が暗いのである。
 
コンサートが終わり、藤岡と四人で電車で帰った。
どこかで、お茶を飲むことも無く、疲れ切って鎌倉に戻った。
 
私は、帰りの電車でパニックに陥りそうになった。薬を飲むのが、遅かったからだ。
 
本当に、電車で出掛けることは大変なストレスだった。
 
藤岡も疲れてか、その時のコンサートの話しはしなかった。
ただ一言、先生は公の前では歌えない人なんだ・・・
 
どうして・・・
肝が小さいから・・・
つまり内弁慶なのである。
 
指導者としてだけ活動する人なのである。
だが私としては、藤岡が尊敬していた指導者の歌も、たいしたものではなかった。
音程通りに歌う。それだけ。
 
歌という表現芸術は、楽譜通りが決していいわけではない。
勿論、音程は必要である。
しかし、声楽家は音程に捉われるあまり下手になる。
 
更に、再現芸術である。
より楽譜に忠実に・・・
その気持ちも理解する。
 
だが、創意工夫があっていい。
それは同じ曲を歌っても、人により感触が違うのである。
その感触というものは、創意と工夫であり創造行為である。
 
私が、藤岡宣男の歌声に、もののあはれを感じると言い続けてきた。
それが、私には、藤岡の創意工夫だったと思っている。
勿論それは、私が受け取る私の感受性である。
人には強制しない。
 
また別に、藤岡の歌声を評価する者もいるだろう。
評論家の一人は、シルクトーンと表現した。
つまり人それぞれに、何かを感じ取らせる歌声があるということだ。
 
私が、もののあはれを感じると言うと、上手いでいいとか、もののあはれ、というものが解らない云々・・・
私が感じたことに、何故、拘るのか解らないのである。
 
更に、私は素人である。
 
私が、そのように感じた。
それこそ芸術ではないか。
 
例えば、私はピカソの絵を理解できないし、感じない。
理解しないと言うのであり、否定しているのではない。
 
芸術家は、いつも、その観客の感じ方に左右されるものではない。
万人に受け入れられるものなど、この世に無いのである。
 
一度、藤岡とモンゴルの草原で歌う歌手の歌を聴いたことがあり感動した。
言葉の意味は全く解らないが心に響いてきた。
 
芸術は、受け取る側によって決められる運命がある。
 
更に、好きか嫌いか・・・
 
人間の、最も素の感性によって芸術の価値がある。
自分の良いと思うものを強制すれば、それは、芸術鑑賞に別な要素を加えることになる。
例えば政治的意図があったりと・・・
 
芸術は、そんなものではない。
 
バッハが生活のために書き続けた楽譜の演奏を聴いて感動し心に響くものがある。
それは、すべて受け手の問題である。
 
何度聴いても良い歌、心に沁みる歌は良い歌である。
名曲は何度聴いてもいいのである。
 
その名曲でさえ人それぞれの感性に任せられる。
 
藤岡は、初リサイタル以後の一年を過ぎてから、色々な歌のジャンルに挑戦した。
私は、それらの歌を巧いと聴くことができた。
 
それは、藤岡の問題ではなくなる。
受け手の私の問題である。

 
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