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ある物語 18 

ある物語

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第十八話

寒さが緩み春になったが、実感として春を感じられないのである。
 
初めての冬は、とても辛いものだった。
勿論、札幌よりも気温が低いが、それが更に寒さを増した。
北海道の冬の寒さは痛い寒さであり、鎌倉の寒さは本当に寒いのである。
 
冷たい霧吹きをかけられているように思われた。
 
更に、私のパニック障害による、抑うつである。
パニック障害の本が、続々と出版されるようになる。
私は、それを買い込み、徹底的に読むことにした。
 
結果、簡単に書くと、脳内物質のアンバランスのせいである。
つまり、セロトニン、ギャヴァ、ノルアドレナリンである。
治療薬は、坑うつ剤、坑不安薬を用いる。
 
すると、つまり私の処方には、坑うつ剤が無いのである。
それでも、病院を変える気持ちまでには至らなかった。
何とか、それで治るのではという期待である。
 
長々と、無用な治療を続けていた。
 
その年の、春には札幌からお弟子さんたちが、鎌倉にやって来て、お茶会をする予定である。
丁度、鎌倉に住み始めて一年目の頃になる。
 
三寒四温を繰り返しつつ、春になる鎌倉である。
その気温の変化も重荷に感じた。
 
藤岡も、二週間に一度病院から薬を処方される生活が続いていた。
何度か、薬を変更していた。
少しばかり合う薬が見つかったようである。
 
まだ、SSRIの坑うつ剤が出ていない。
翌年から、それが処方されることになった。
 
2001年以前の記憶が曖昧である。
手帳も横浜へ引越の際に紛失している。
 
1999年と、2000年の記憶が一緒になっているような・・・
 
99年は、世界の終わりというノストラダムスの預言の年である。
勿論、預言は外れたというより、解釈が外れた。
 
2000年を21世紀にする国と、イギリスなどは2001年から21世紀にするなどの話題があった。
 
だが、藤岡が師事していた先生から離れるという話を聞いたのは、99年の年だった。
おおよそ、10ヶ月を師事したはずという、記憶がある。
そのきっかけが、発表会だった。
 
発表会のノルマが10万円ということで、それは高過ぎると私も言ったような気がするし、藤岡も、そう思った記憶がある。
そして、断りを入れると、先生のマネージャから料金を払って欲しいとの連絡があったと思う。
 
それで、私も激怒したような・・・
藤岡が一番高い料金だった・・・
 
この機会だから、先生を変える。
藤岡が言った。
新しい先生は、鎌倉から近いのであり、私も賛成した。
ただし、その先生は歌い手ではなく発声指導でもない。
古楽に関しての造詣が深く解釈を得意とする先生だった。
 
カウンターテナーの得意は、古楽であるということから藤岡が決めたようである。
それには、異議がなかった。
 
更に、長い時間を電車に乗らなくてもいいのが、私にも救いだった。
藤岡のストレスは、長時間の電車であるから、気持ちも改善するだろうという見込みである。
 
その時の、止めるための理由を書いたノートを、亡き後私は目にした。
藤岡らしく、論理的にまとめていた。
 
その一つは、経済的なことだった。
仕事を始めることを考えている云々・・・
 
確かに、この一年で藤岡の貯蓄したものは、大半が消滅していた。
何せ、レッスン代が一番である。そして、交通費。更に、保険金額が前年の収入から算出されるのだから、給料の多かった藤岡には大変な出費だったはず。
 
私の方も、徐々に原稿が無くなっていた。
原稿を書いて十分な生活が出来ていたが、それが怪しくなってきたのである。
 
バブルの後からの不況である。
 
それでも、まだ余裕が合った。
すべての原稿依頼が無くなった訳ではなかった。
 
札幌からお弟子さんたちが、鎌倉に来た時期は、まだ寒さが残る時だった。
全員が、私の部屋に泊まることになったので、そのための準備をした。
新しく布団などを買った。
 
記憶では、六名が来たはずである。
そして、二名が残り、お花の稽古もしたいとのことだった。
 
その時は、札幌から出て来て、済まない気持ちになった。
矢張り、私は師匠であるという意識。
彼女たちには、私しか師匠はいないのである。
私が巨大流派から離れて、家元を名乗ったせいである。
 
だが、残ったお弟子さんたちは、それで満足だったようだ。
その組織に入っているということは、いつも組織のために、お金を払う必要があった。
 
人に指導できるほどの、資格を上げたお弟子さんも多々いたのである。
だが、誰一人弟子を取る者はいなかった。
私が洗いざらい、組織のカラクリを教えたからだろう。
そして、新しい流派なのだから、その心配がなくなっても、人に教えるということは考えなかったようだった。
 
その中に、高齢のお弟子さんがいて、皆をまとめていた。
今、現在もその人を中心に、お弟子さんたちが集い稽古を続けている。
 
更に、藤岡亡き後、私は新しい活動を始めて、お弟子さんたちとは疎遠になった。
数名のお弟子さんと、手紙のやり取りをする程度になった。

 
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