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ある物語 55 

ある物語

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第五五話


藤岡の母親が引越しした後で、藤岡が鎌倉の部屋の引渡しに出掛けた。
そして、帰るなり、私に言った。
 
あの日、引越ししていなければ、母は死んだかもしれないと。
えっ・・・
 
いつも洗濯物を干しているベランダがあり、そのベランダの物干し竿が、部屋の引渡しの際に、折れたというのである。
つまり、もし、あのまま母親が住んでいたら、物干し竿が折れて、そのままベランダから落ちたという。
 
高齢であるから、二階からでも、死んでしまうと言う。
 
実に、嫌な話である。
 
その話は、一度だけで、終わった。
私も、聞く気がない。
 
兎に角、藤岡は、母親との暮らしが出来る。
その頃、母親も、高齢であるが元気だった。
 
いつも買い物には、自転車を使う。
その姿が、颯爽として、少女のようだった。
 
私は、時々、藤岡の部屋に行ったが、母親は、私のマンションは知っていても、来ることはなかった。
 
藤岡が、私の部屋で仕事をしているという、理解である。
 
母親にとっては、何事もない平穏な生活が続く。
どんなに藤岡が遅く帰っても、母親は起きて、風呂にお湯を入れて、藤岡を先に入れ、その後、自分が入ると言っていた。
 
藤岡は、母親の主人でもあったのだ。
 
私が部屋に行くと、藤岡が、まだ寝ている時がある。
そうすると、母親が、私のミルクティーを用意してくれる。
それを飲みつつ、藤岡が目覚めるのを待った。
 
母が言う。
頼りにしています・・・
私のことである。
 
確かに、彼女の知り合いは、私しかいないのである。
そして、私の知り合いも、藤岡親子だけ。
 
藤岡は、母親に言う。
木村さんのお陰で、ここに住めるんだよ・・・
うん、分っている・・・
 
部屋は、私の名義で借りている。
だから、最初は、郵便受けに木村と藤岡と、書いた。
 
最初の手続きで、叔父としては駄目だったので、私の名で借りることにしたのだ。
 
だが、それも、これも、藤岡が歌の道を目指したからである。
あのまま、会社を辞めずにいれば・・・
何の苦労もなかった。
 
いずれは、歌で食べてゆかなければならない。
大変な決意である。
 
大半の人は、現実に添い、希望を諦める。
藤岡は、札幌の際に、嘘の人生は嫌だと言った。
 
現実に添う生き方を嘘と、言うのだ。
我が心の命じることをするという・・・
それが、如何に、厳しいことでも・・・
 
私も、芸の世界にいた者であるから、その気持ちがよく分るのである。
 
茶道、華道、舞踊・・・
それを教えて、生業にしていた。
そして、占い師として、活動していた。
 
自分の好きなことをするには、大きな犠牲が必要である。
そして、私は、それらを畳んで、鎌倉に出たのである。
 
ただ、時に、東京でそれらをするという、話が何度か持ち上がったが・・・
 
私は、占い師として、更に物書きとして、立って行きたかった。
それが、藤岡のプロデュースをするという・・・
 
この筋道を、誰が立てているのだろうか。
だが、そんなことも考えないほど、私はコンサート開催に没頭した。
 
そして、私も、いつか藤岡の歌がお金になる日を、夢見た。
 
その時の、決心は、藤岡に伝えてあった。
成功して、私の存在がいらなくなれば、いつでも、私は手を引くからね・・・
 
私の行為は、無償の行為である。
格好良すぎるだろうか・・・
 
そんなことは、無い。
私一人が講演するより、藤岡が歌えば、一度に一万人に感動を与えられる。
そんな人を世に出すことが、出来るのである。
それは、僥倖だ。
そのように、考える。
 
面倒なお話より、歌の方がすっきりして、いい。
 
私は、札幌では多くの講演、社員教育などをしていたが・・・
もう、そんなことは、遠い思い出になっていた。
 
そして、物書き・・・
小説でも、占いでも、何でも書ける物書きを目指したのである。
 


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