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ある物語 27 

ある物語

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第二七話


初リサイタルをするという話しが出たのは、前年の秋も深まった時期だったと思う。
 
ある伴奏ピアニストの紹介によった。
 
2001年2月、鎌倉である。
 
そして、その年から、藤岡のリサイタル活動がはじまった年でもある。
 
その2月に、ある団体のライブ公演にゲストとして出演した。
その時の、思い出である。
 
その前日に、二度目のコマーシャルソングの録音があった。
そこで、私は、鎌倉に戻りまた出掛けるのは、大変だろうと東京のホテルに宿泊することにした。
 
都庁に近い高級ホテルを予約した。
 
一緒に出掛けて、チェックインして、少し休んで、藤岡はスタジオに向かった。
私は、部屋で待っていることにした。
 
一人で夕食を食べて、藤岡を待っていたが中々戻らないのである。
ベッドで、うとうとして待ったが、矢張り遅い。
 
結局、藤岡は、深夜を過ぎて戻った。
疲れていたと思う。
すぐに、シャワーを浴びて、翌日のためにベッドに就いた。
 
翌日も、本番である。
朝早くから、出掛けた。
 
場所は、武蔵野市である。
新宿駅までタクシーに乗り向かった。
 
会場に到着して、すぐに楽屋に入り、衣装を付けてリハーサルである。
私は、楽屋に行かず、ロビーで過ごしていた。
 
多くの子供たちが、出演するミュージカルである。
地球の緑を救うという内容だった。
 
リハーサルが始まり、私も客席から見ていた。
 
藤岡の歌は、アベマリアである。
際立って、目立っていた。
更に、その衣装もである。
 
そして、いよいよ、開場時間である。
私は、受付を見ていた。
どんどんと、お客が入る。
 
その時の私は、まだ藤岡の活動に関与するなどとは、考えていなかった。ただ、ステージとは、華やかなものだと感じていた。
 
ミュージカルなどは、札幌で一度だけ見たことがあるだけ。
その舞台裏を見ることはなかった。
 
本番もリハーサル通り、藤岡が一人で舞台に立ちアベマリアを歌う。
その声は、澄んでいて、美しいものだった。
だが、客の中には、当て振りだと思った人もいる。
 
舞台が終わると、出演者がロビーに出て来て、お客さんに、挨拶する。
藤岡はサインを求められていた。
舞台衣装のままである。
 
私は、遠くから眺めていた。
ようやく、客足が引いて、私は藤岡の元に行った。
楽しかった・・・
藤岡が言う。
 
よかった、よかった・・・
声が澄んでいて、素晴らしかった・・・
私が言った。
 
その日は、そのまま帰宅することができた。
打ち上げには出なかった。
 
二日間は、本当に疲れるスケジュールだったが、充実していた。
そして、鎌国に戻り、いよいよリサイタルの準備である。
 
藤岡は、毎日練習していた。
更に、師事していた先生のところでも、プログラム通りに練習した。
 
当日は録音をする予定で、師事していた先生の紹介で録音業者も決まった。
 
私の部屋の電話も、チケット希望の申し込みがある。
地元のフリーペパーなどで紹介されたせいか、その数が多い。
ついに、予定人数を超えたのである。
 
会場側も満席となった。
そこで、私の名簿には、50名ほどの人が入場できない状態になったのである。
 
150名の席が埋まった。
初リサイタルの手応えは、上々だった。
勿論、藤岡の勤めていた元の会社からの、同僚たちも多くやってきた。
 
開演は、夜の七時である。
私と藤岡は、五時前に会場に向かった。
準備は済んでいたのでリハーサルも簡単だった。
 
録音のための、音の調整が主である。
 
席が足りないくらいの状態で、お客様を迎えた。
受付は、私がした。
まりちゃん夫婦も来た。
 
まだ、冬の寒さの鎌倉での、初リサイタルである。
忘れられない思い出の、コンサートだった。
 
少しの緊張感・・・
それが、また、とても良かったのである。
 


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