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ある物語 56 

ある物語

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第五六話


四月に入ると、海老名にてのコンサートにゲスト出演する。
それは、チェンバロの方からの依頼である。
 
そこで、思い出したことがある。
初リサイタルの鎌倉の際に、鎌倉で発行されている雑誌に紹介された。
そして、その雑誌を見た、NHKラジオのディレクターの方から連絡を頂き、ラジオ出演の依頼を受けていたのである。
 
丁度、その海老名のコンサートにアナウンサーと一緒に来るということで、楽しみにしていた。
 
であるから、その後、すぐにラジオ第一に出演したのである。
 
海老名でのコンサートは、会場が少しばかり狭く、満席のお客さんで大変だったことを、覚えている。
その主催が、町の有力者の集いだったのか・・・
記憶が定かではない。
 
ラジオ出演に私が同行するか否か・・・と、迷った。
というのは、出演している間に、事務所に電話が入る可能性が高いからだ。
 
だが、私は藤岡に付き添った。
藤岡もそれを願っていたようなので・・・
 
ところが、案の定であった。
出演している間に、続々と問い合わせの電話が鳴っていたのである。
 
帰宅して、留守電を聞くと、一杯に入っていたのだ。
 
ああ・・・
矢張り、私が居残ればよかった・・・
 
すべて、CDの予約だった。
その留守電を聞き直して、名前、住所を書き取るのに、半日以上かかった覚えがある。
そして、早速、注文のCDを送る。
 
つまり、CDが出来上がっていたのである。
 
それも、二枚、三枚である。
続けて私は、CD製作をしたということだ。
 
その頃のことは、幾重にもやることが重なり、明確な記憶が無い。
 
ただ、兎に角、CDを製作しておいて良かったということだ。
更に、その放送を聴いた方々が、コンサートに来るという状態になった。
 
その中には、あの有名な仏教学者もいたので、驚いた。
私も、昔から読んでいたので、本人が来た時は、本当に驚きである。
 
更に、彼は藤岡の声に感動して、二度目の際に、藤岡と私に新刊本を進呈してくれた。
 
その二度目は、とてもマニアックなホールでの、日本歌曲のリサイタルだった。
会場を決めた私も、迷うという・・・
 
そのホールが録音設備が整っているということで、決めたのだ。
藤岡は、すべてのリサイタルの記録録音を取っていたが、専門の録音ではないから、私が気を利かせたのだ。
 
藤岡の歌すべてを、CDにするという決意があった。
 
ラジオ放送が大変評判良く、ラジオの番組にも、多くの感動の電話があったと聞いた。
一度でも、公の電波に乗るということが、如何に凄いことかを知った体験である。
 
ただ、こちらから、何か事をするというのではない。
あちらからの、求めに応じるという、形を取った。
頼むというのに、やや卑屈な感覚を持っていた。
 
私自身、札幌時代に、テレビ、ラジオに10年程出ていたので、良く分る。
 
四月は、更に、ピアニストのコンサートに呼ばれて、ゲスト出演した。
そして、リサイタルは、チェンバロによるものである。
東京だった。
 
当時は、それでも、十分に時間的余裕があった。
藤岡も、以前の仕事を続けていたのである。
 
初リサイタルから、一年が過ぎて、これからいよいよ本格的に始まるという、予感を感じていた。
 
日常生活も、変わりなく・・・
お母さんも、新しい部屋にすぐに馴染んだようだった。
以前より、部屋が広いので、喜んでいると藤岡から聞いた。
 
朝ごはんを部屋で食べて、昼、夜と、私の部屋で食べて帰るという生活が続いた。
母親は、私の部屋で藤岡が仕事をしていると、思っていたようである。
 
時々、買い物の際に、お母さんと出会った。
互いに、自転車に乗り、言葉を交わす。
 
お店で、会うこともあった。
その度に、笑ったものだ。
 
楽しく過ごしていることが、私には、安心だった。
 
三月までは、藤岡の花粉症が出るが、四月になると、それが治まり、私も一安心である。その間は、毎日、漢方茶を作っていた。
 
リサイタルを一年間続けて、藤岡も声楽家として立つという意識が、更に強くなったと思う。
 
私は、一年後を目処にして、コンサートの企画を考えていた。
そんな時、新潟の方から連絡が入った。
 
新潟のあるグループがボランティア、特にアフガンの人たちのために、何かしようということで、コンサートを開催したいというのである。
すぐに名が挙がったのが、藤岡宣男である。
 
私は、即座に出演する旨を伝えた。
それから、そのコンサートにも関わることになる。
 


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