第五二話
思い出したことがある。
2002年の一月の、オルガンと共に宗教曲のリサイタルである。
私は、宗教曲については、カトリック教会にて知っていた。
しかし、それをコンサートとして歌うという意識はなかった。
ミサの際に歌うものという意識である。
だから、少し変な感じがした。
そして、宗教曲が、今では芸術音楽として演奏されているという、驚きであった。
ただ、宗教曲といっても、広い。
教会で歌っていたものと、違うのである。
それが、バッハである。
そんなことを、全く意識していなかった。
つまり、バッハという、作曲家のことである。
知っていたのは、名前だけ。
それが、藤岡によって、別の形で示されたのである。
一月に開催するということは、それ以前に、その話が決まっていたということだ。
ところが、その記憶が無い。
だが、そのリサイタルには、多くの人が来たことを覚えている。
オルガンを弾く伴奏者の知り合いも多かった。
つまり、彼女にとっても、初めてというべきコンサートだったのかもしれない。
更に私は、チケットを申し込む人に、電話口で、今回は、宗教曲ですよ・・・いいですか・・・などと、確認していた覚えがある。
そんな曲を聴く人がいるのか・・・というのが、素直な気持ちだった。
クリスチャン以外の人が聴くの・・・
ところが、それが好きな人がいるということに、驚いた。
藤岡が、それから私に、聖書について教えて欲しいと求めてきた。
キリスト教について、知らないという。
へーーー
キリスト教を知らないで、宗教曲を皆、やっているわけ・・・
私には、それも、驚きだった。
要するに、音楽として、捉えているということなのだ。
しかし、その後で私が調べると、バッハは、プロテスタントであるのに、カトリックの典礼にある形の、曲を作っている。
それから、どういうことなのかと調べ始めた。
それが、西洋音楽と、その歴史を見ることだった。
だが、藤岡生前の時は、一切、話はしなかった。
その死後、西洋音楽史というものを、見ることになる。
更に、音楽学なるもの・・・
そして、芸術論なるもの・・・
勿論、呆れたし、うんざりした。
この、屁理屈の世界と・・・
兎に角、オルガンのリサイタルを開催した。
オルガンのイメージが変わった。
ピアノの音より、私は好きである。
小さなホールなので、とてもよく響いた。
更に、藤岡の歌声も、改めて聴くことになった。
オペラアリア、ドイツリート、その他・・・
違う。
藤岡の声が、違うのである。
そうして、振り返ると、藤岡は、イタリアの大聖堂で歌った録音を思い出した。
簡単に言えば、その音響は、日本のものとは違うということである。
現在、ホールは、その西洋の音響に近く造られている。
そうでなければ、西洋音楽は、聴いていられないもの。
日本の木造建築では、無理なのである。
だから、ホールは、石造りの音響と、残響を考えて、造られる。
ところが、藤岡は、場所を選ばなかった。
とても、強い自信である。
どういうことだ・・・
藤岡の声の響きは、どこでも、可能なのか・・・
こんな場所では、歌えない・・・
こんな場所では・・・
ということが、無かった、藤岡である。
それで、思い出した。
昔、茶の湯を教えていた頃に・・・
どの先生も、この茶室は使えないと言う・・・
でも、天山さんは、最高の茶室と言う・・・
ということがあった。
その茶室は、利休が晩年に造った、二畳の茶室と同じである。
だが、お茶の先生たちは、使えないと言う・・・
つまり、利休の言う、創意工夫というものが皆無なのである。
家元に教えられた、あるいは、決められた通りの、お手前のみしか、頭に無いのである。
それは、東京でも起きた。
造った茶室を見た、お茶の先生たちは、ここでは、お茶は出来ないという・・・
どうですか・・・と、問われた。
私は、出来ますと、答えた。
茶の湯の心さえあれば、どこでも、茶の湯は出来る。
と、それと、同じなのである。
藤岡は、必要とあれば、何処でも、歌った。
例えば、知り合いの方の、お父様が亡くなられた葬儀の際に求められて、即座にアカペラで、アベマリアを歌う。
この場所では、歌えませんとは、言わないのである。