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ある物語 59 

ある物語

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第五九話


ミュージカルの練習に何度か着いていった私は、その練習風景が、とても楽しく見えた。
また、勉強になった。
 
ようやく、藤岡の役柄のすべての演技が決まり、それから私は、練習に着いて行かない。
やることが、多々あった。
 
そのミュージカルが近づくと、座席の確保が廻ってきた。
つまり、優先的に、良い座席を取れるというものである。
そこで、告知を始めた。
 
コンサート情報を送る際に、その情報を入れると、予約がくる。
そうすると、私が、その座席を決めて、申し込み、更にチケットが送られてくるのを、また私がお客様に送る。
その、繰り返しである。
 
勿論、その間にも、コンサートを開催していた。
 
一度、藤岡は、ミュージカルにゲスト出演していたが、それとは、規模も大きく、内容も全く違うものである。
 
藤岡も楽しく、練習に参加していた。
 
何せ、台詞を歌うのである。
それが、ファルセット、カウンターテナーの得意技。
 
大音響と共に、登場して、そこで歌う。
衣装も、黒尽くめであるが、とても目立つもの。
 
その公演は、三日間続く。
そこで、私はホール近くに、ホテルを取ろうと思ったが・・・
藤岡が、それでは休めないということで、公演を終えると、横浜に戻ることにした。
 
その頃も私は、長期的展望に立ち、続々とリサイタルの予定を立てていた。
カレンダーを先取りしていたのである。
 
すべてを決めた後で、藤岡に報告するという・・・
 
ただし、伴奏者については、藤岡の意見を聞かなければならない。
それでも、私が決めたこともある。
 
その頃、何か将来への道のりが、見えていたように思う。
いずれ、藤岡は、歌の世界で認知されるという、確信である。
 
それを信じて、私も全力で当たった。
 
季節は、巡る。
そして、その季節の中で、色々な思い出がある。
 
普段の生活・・・
相変わらず、藤岡が出掛ける時は、私がお握りを作った。
それは、最後まで変わらない。
 
藤岡は、コンビニのものも、人からのものも、食べなかった。
唯一、私の、お握りだけを食べた。
 
そして、私が煎れたお茶である。
 
勿論、夕飯も一緒である。
手を抜くと、必ず、これは木村さんのものではないと、言うのである。
その通りだった。
 
市販のおかずは、駄目なのである。
 
また、市販のおかずを買わなくても、北海道から様々な、食料が贈られてきた。
魚介類から、肉まで・・・
 
食卓は、実に豊かだった。
 
だが、藤岡が亡くなった後は、皆、断った。
 
その季節ごとの食材は、鎌倉時代からのものである。
色々な方から、頂いていた。
 
お米も、新潟から贈られる。
それを、藤岡のお母さんにまで差し上げた。
最高の米を食べていたのである。
 
ただ、藤岡は、そんなことを知らない。
それで良かった。
 
食べ物にまつわる話は、実に多い。
藤岡は、一人っ子で育ったせいか・・・
 
私が二人分を作っても、それがすべて自分の分であると、よく皆食べていた。
そんなに、食べたの・・・
うん、おいしいから・・・
私の分も・・・
 
えっ、僕の分じゃないの・・・
 
何度も、そんな会話を繰り返した。
 
ある時など、私の実家から送られてきた、名物の甘エビで、手まり寿司を作った。そして、私は、藤岡が帰るまで、ソファーで寝ていた。
気付くと、藤岡が部屋に来ていて・・・
 
あれっ・・・
手まり寿司は・・・
藤岡が、すべて食べていた。
愕然・・・
 
二人で食べるのを楽しみにしていた。
おいしかった・・・
屈託なく言う藤岡に、言う言葉がなかった。
 
今でも、私は、自炊している。
外食より、自炊するのが性に合っている。
食べ物の思い出は、限りなくある。


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