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ある物語 20 

ある物語

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第二〇話

藤岡が海外に出掛けたのは、その他に二度あった。
それも、最初の先生に師事している間だった。
 
韓国の後ではローマにセミナーに出掛けた。
鎌倉に移転した年の後半のように、覚えている。
 
ローマは、食べ物が美味いと、非常に気に入ったようだった。
だが、その時のセミナーでは、同じく参加した人の一人が、何かのことで精神的不安になり、単独行動を取り、皆でローマの街を探し回ったようである。
 
一度、二度の電話があり、それを聞いた記憶がある。
 
藤岡が、いなくなると、私は一人になり、毎日、散歩をするしかなかった。
本当に、よく歩いたものだと思う。
 
住んでいた部屋の、裏側から民家を通り抜けると山に出る道で、時間を忘れて歩いた。何かを忘れるために歩いた。
そして、何も心配することがないのに、何かを心配して不安になっていた。
パニック障害と併発した、不安障害である。
 
更に、再度ローマに出掛けたのは、先生と関係なかったが、ある合唱団と共に行き、ソロを歌うということだった。
 
その時、私はお金のことを心配した。
三度も、一年のうちに出掛けるのは大枚な金が必要である。
だが、それを口にしなかった。
 
そのローマの旅は、楽しいものだったようで、古い教会堂で歌った録音を聴いて頷いた。素晴らしい響きである。
 
教会での、コンサートが大盛況であり、藤岡の歌が更に評価されたという。
 
だが、師事する先生とは、終わりにすることになった。
それは、以前に書いた通り。
 
ただ、同じく師事していた人たちとは、友人関係を続けていた。
特に、名古屋出身のソプラノの女性とは、親しく付き合っていた。
彼女には、その後、私の声楽セミナーの講師にもなってもらった。
 
藤岡の精神的な異変にも、早くから気づいていたようである。
無理しないでね・・・
そんな事を、藤岡に言っていた。
 
藤岡は、無理をしていたのである。
 
長く電車の乗ること、お金が飛ぶように出てゆくこと。
考えていたより、お金が底を尽く事を感じていたようである。
 
私も、同じく。
 
話を先に進めると、次ぎの先生に師事し始めてから、次第にお金のことが口に出るようになった。
その度に、私は、私のお金を使いなさいよと言った。
藤岡を不安にさせたくないという思いである。
 
そして、お金が尽きた。
私は、それを察知して、毎月の生活費、レッスン費、交通費を渡すようになる。
 
だが、藤岡は、仕事を探し始めた。
私は、やらなくていいと言ったが、それでも求人誌を求めていた。
 
その頃の私は、まだ原稿書きの収入と、東京辺りの人たちからの、相談の仕事をしていたので余裕があった。
貯金する余裕もあった。
 
保険には三本入っていたが、更に郵便局の貯蓄重視の保険にも入った。
 
ただ、私の収入も次第に落ちてゆく。
だから、東京にて何かをしなければという意識は、あった。
ただ、パニック障害が治らないのである。
 
東京に出るというだけで、戦争に出掛けるような気分になった。
 
あらかじめ、薬を飲んで置く。
帰りのための電車の時間に合わせて薬を飲む。
 
ある時、横浜で札幌から出て来た友人と会い、別れる時に薬を飲むことを忘れて電車に乗ってしまったことがある。
一駅が、精一杯で、発車する前に電車から降りた。
 
そして、漸く鎌倉に着いて部屋に戻ると、藤岡が待っていた。
しかし、私の様子にレッスンの部屋から出て来なかった。
私の顔は、蒼白になっていたと思う。
 
そして、一度それを体験すると予期不安が襲う。
予期不安から、抑うつになる。
とてもそれは、苦しいことだった。
 
そんな状態を一年半続けたのである。
今思えば、医者を変えるべきだったのだ。
 
どんどんと、よい薬が出でいる時期だった。
 
続々と、その手の本が出版され、私は手当たり次第に読んでいた。
どのような仕組みで成るのかも知った。
それでも、医者を変えずに頑張っていた。
 
その頃、世の中では、精神薬による犯罪が多くなっていた。
処方される薬を悪用するという。
だから、薬の処方が厳しくなり、量も制限された。
 
藤岡の変わりに、薬を取りに行く際には、とても面倒な手続きが始まった。
同じ病院だが、藤岡は院長にかかっていた。
私より増しだと思ったが、薬が合わないようなのだ。
 
一時的に良くなるが、持続しない。
藤岡は、その手の本は読まなかった。
だから、読んでいる私の方が、よく藤岡の状態を把握していた。
そして、このままでは、駄目だと思うようになる。
 
それから、初リサイタルまでの時期が、藤岡と私の第二の鎌倉生活である。
 

 
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